甘味は金より尊し

トモとロクと十三番都市の日常

「あっ、いたいた! やあこんにちは」
「ロクさん? どうしたんですか。マサ兄は今日は仕事ですよ」
「ううん、今日はまさっきーじゃなくて、君に用があるんだよ」
 一週間分の配給を受け取るために家を出たトモに声をかけてきたのは、十三番都市を基点に暗躍する闇商人だった。都市の人工的な照明にきらめくブロンズの髪と同色の長いまつげが、彼の切れ長の瞳を縁取っている。鼻筋の通った整った顔立ちの、黙っていれば息を呑むような美しさを持ったこの男は、しかしその意図の読み取れない笑みと言葉で人を翻弄し、美しさへの賞賛の言葉を人々に飲み込ませた。そんな彼が十三番都市を根城にするのに、特に理由があるわけではない。ただ単に、空気清浄機の動作範囲だけは余裕があるこの都市は、よほどのことをしでかさなければ居座ることに寛容であるだけだ。そして、彼はこの都市に住むマサキという名の青年をいたく気に入っていた。
「オレに?」
 それらの事実を、マサキの義理の妹であるトモは知っていたので、自分に用があるというロクに思わず訝しげな声と表情で返した。
 そもそも、この闇商人の評判はあまり良いものではない。曰く、十三番都市近くに存在する十二番都市である夜の街は彼を出入り禁止にしているらしい。曰く、彼は人身売買を行う白く美しい女と交流があるらしい。曰く、薬物の類を扱うことがあるらしい。曰く、地上の空気で潰れてしまった喉と目を持つ少年をペットとして飼っているらしい。それらの真偽の分からない噂は、しかし、どれもが真実味を帯びていて、まさにそれこそが彼が闇商人と呼ばれる所以であろう。ただ、大多数の人間が彼を闇商人と呼び、全うな人間ではないと言いつつも、悪人と呼ぶには些か良心の呵責を感じてしまうような、そんな不思議な魅力が彼にはあった。
「配給を受け取りに行くの? 家族全員分受け取るのはキツいでしょ。手伝うよ」
「結構です。台車借りるし」
「もぅっ。よそよそしいなぁ。敬語なんて要らないよ。まさっきーの妹なら僕の友達みたいなものじゃないか」
 にこりとも、ニヤリとも形容できるような、蠱惑的なロクの笑顔は、トモが昔、フリニカルの所で見た過去の遺物である芸術品の数々を思い起こさせた。絵の具を無造作に混ぜたような、限りなく黒に近い、何色とも形容しがたいような悪意を、純白のヴェールで何重にも覆い、摘み取ったばかりの生花をふんだんに散らせば彼の笑顔を表現できるだろうか。宝石のような煌びやかな美しさではない。毒を孕んだモノ特有の、心臓をソッと撫でられるような心地すら感じる美しさ。蟲だ。蟲に似ているとトモは思った。それは、十三番都市の使われていない地区で野垂れ死んだ、誰とも分からぬ人々だった物体に集る白く小さな蛆が、何匹も何匹も蠢くような、そんな本質的な嫌悪を帯びた色気のようなものだ。そこまで思考を働かせてトモはロクへの嫌悪感に顔をしかめた。
「そういうわけにはいきませんよ。目上の方には敬意を持てとは、オレの先生の教えです」
 先生という言葉に、一瞬ロクの顔から生気が抜け、彫刻のようになったのを見てトモは内心ホッとした。トモが師事するもう一人の居候のことを、ロクは得意としていないこともトモはきちんと知っていた。禄に関わりもないくせに妙にこの美しいだけが取り柄のような男のことを知っているものだとトモは思う。
「君もマサキも本当にあの学者サンのことが好きなんだねぇ」
 詰まらなそうな顔を隠しもせずにロクは忌々しげにそう告げる。
「僕に言わせりゃ、あの偽善者は僕より質が悪いのに」
「あぁ……」
 ロクの言葉にトモはダダをこねる愛し子を見るような、どうしようもない諦めの笑みを浮かべながら相づちともとれない曖昧な返事を返した。ロクは自身の挑発にトモが激昂まではしないものの確実に不機嫌になるだろうと踏んでいたのだろうか、意外そうな顔を通り越して怪訝そうにトモを見た。
「あの人がどうしようもない人だってことはオレにだってわかりますよ。マサ兄ですら気づいてる。それでも、いや、だからこそかな。オレたちはただの善人じゃないからこそフリニカル先生が好きなんですよ」
 今、トモとロクが立ち話をしている場所は、都市の中心から広がる商業地区から少し離れた場所にある東部住宅地区である。住宅地区は商業地区を囲むように東西南北に分かれている。それぞれに特色があり、トモの住む東部住宅地区には他都市の人々が泊まる宿が多くあった。昔、まだ空が青かった頃に、街に点在したという商業施設を模したらしい十三番都市の街並みは、おおよそ街と言うよりも巨大なマンションや研究施設のような閉塞感のあるものだ。廊下と呼ぶに相応しい道には天井から床まで続く壁が沿っており、ことさら住宅地区はそこにドアが点在して、その中の様子は外からでは全く分からないような様子だ。味気ない人工的なその風景は、他都市の住民にも、十三番都市で生まれ育った都市民にも実に不評である。さすがに、都市内外から多くの人が集まる商業地区の天井には青空がプロジェクションマッピングによって投影され、店はガラス張りになっていたり、そもそも壁によって道と隔てられていなかったりといくらか開放的になっているため、都市民の多くは休みの日であっても商業地区で時間を潰す者が多い。そんな風に商業地区へ向かったり、商業地区から帰ってきたりする人のごった返す、その中でもトモの赤い髪は一際目立っていた。誰も彼もが初めてトモを見たときに少し驚いたような、何か奇妙なモノを見る目をした。フリニカルはそんなトモと初めて会ったときに、驚きの表情を見せなかった数少ない人物でもあった。フリニカルの興味の対象は多岐に渡る。ただ、フリニカルは赤い目と髪を持った子供にさして興味を持たなかったというだけだ。自分に興味の目を向けてこないフリニカルにトモは興味を抱き、懐いた。マサキもトモも十三番都市では少し浮いた子供たちであったことは、十三番都市に住み着いて間もないロクでも容易に想像がついたのだろう。そして、フリニカルがそんな子供たちに無関心の目を向けたことも、想像がついたらしい。
「なるほど、君やマサキに好かれるには君たちに無関心でいなければならないのか。それは随分と難儀だねぇ」
「そういうわけでもないですよ。あなただって、ただの悪人じゃないからマサ兄はあなたに随分と入れ込んでいる」
「へえ、それは初耳だ」
 ロクに対し、ぶつくさと文句を言いながら、しかし、少し楽しそうに目の前の美しい闇商人のことを話す義兄を思い出して少し笑いながらトモは止めていた歩みをまた始めた。
「あっ、ちょっと待ってよ。僕はそんな世間話がしたいわけじゃないんだって」
「オレだって世間話なんてするために家から出た訳じゃないです」
「だから荷物運ぶの手伝う代わりに僕の話聞いてよってば!」
「嫌です。ロクさんの頼みごと関連で禄な話をマサ兄から聞いたことがない」
「ロクだけに……ってこれ前にマサキに言って呆れられたっけな……そんなに変なことは流石に君には頼まないよ。商人は信用が第一なんだ。マサキや、君たちのお兄さんから目を付けられるのは僕だって遠慮したいの」
 信用などと言う、ロクにはもっとも似つかわしくない言葉に思わずトモは再び歩みを止めてしまった。
「信用?」
「あ、今凄く失礼なこと考えてるでしょ。信用を裏切るのが僕の仕事だとでも? まさか! 冗談キツいよ! 僕の顧客の信用を裏切るなんてことしてみろ。僕の命はない」
 珍しく真面目な顔をして蒼白になるロクを見て、トモはため息をついてからもう一度歩き出した。
「オレはこれから配給を受け取らなきゃいけないので、その後でよければお茶でも淹れますよ」
 この男の息をのむような美しさに似つかない必死な様子は、彼の嘘臭い言葉を真実たらしめていて、存外扱いにくいとトモは思う。言葉のすべてが嘘くさければすべてを疑えるし、言葉のすべてがいかにも真実であるように語られたなら胡散臭いと切り捨てることができる。しかし、嘘と真実を巧みに操るこの闇商人はその言葉のニュアンスまでをもコントロールし、耳を傾けさせ、他者の信用を巧く盗んでみせるのだ。それに加えて、よく目立つロクの容姿とトモの髪に起因する、通行人のちらちらとこちらを盗み見るような視線にトモが耐えきれなくなったことも、トモがとうとうロクの話を聞く気になった要因だろう。
 人工的な明かりで煌々と照らされた、人間以外に人工物でないものが見当たらない見慣れた地下都市を、トモとロクは少し距離を置いて歩いた。ウレタン樹脂素材が用いられている薄灰色の床は多くの人が歩いた跡で汚れている。住居区と商区は自警団が当番制で毎日掃除しているが、こればかりは仕方がない。住居区の中心、十三番都市市民センターという文字が浮かんだ電光掲示板が掲げられたガラス戸の前でトモはロクの方へ向き直った。
「ここは都市民以外立ち入り禁止だって知ってました?」
「知ってたけど、初耳だってことにしてあげよう」
 ロクの戯れ言に、トモがロクの顔を見据えたまま沈黙で返せば、渋々といった様子でロクは近くのベンチに腰掛けた。それをトモはしっかりと確かめてから、今週の配給を取りに、自動で開くガラス戸をくぐった。
 事前に配られていた書類を受付に出し、台車に乗せられて運ばれてくるであろう食材をトモは待つ。都市民センターの中は、それぞれの用事のために訪れたのであろう十数人の人が居る。シフトの関係上だろうか、都市民センターはいつ来ても閑散とも混雑もしていない。配給のタイミングやら何やらが上手く管理できているということだろう。何かを話している人の声とペンを走らせる音、紙をまくる音などが静かな空間を支配する。そのうちに配給が運ばれてきて、中身を簡単に確認するとトモはいつもしているように差し出された書類にサインをした。渡された食材は、完全栄養食材と呼ばれる味気ない固形の物が半分と、いくつかの野菜、ドライフルーツ、米や小麦粉に、肉が少し。これも、いつも通りだった。
「台車は明日中にはご返却をお願いします……まぁ、イサクさんにでも頼んでおいて」
 都市民センターは自警団の管轄である。トモがここに来る度に、センターの役員は親しげに声をかけてくる。いつもなら、少し世間話をして帰るとこだが、今は厄介な闇商人を待たせていた。トモは少し名残惜しい気持ちになりながら、軽く礼を言って、足早にもう一度ガラス戸をくぐった。
「おや、早かったね」
 ロクの姿はすぐに見つかった。ベンチに座ったところを確認してから別れたのだから当たり前と言えば、当たり前なのだが、トモはロクが大人しくベンチに座っている姿が想像できなかったのだ。だからだろうか、トモがロクに声をかけられた時になんとなく残念な気がしたのは。優雅に長い脚を組んで座りながら、無表情に人の流れをぼんやりと眺める姿は、さながら忘れ去られた神話の神を模した彫刻のようだった。 「ロクさんって、口を開くと本当に残念ですよね」
「は……?」
 思わずトモの口からポロリとこぼれた言葉に他意は無い。ただ、ロクがトモに話しかけた瞬間、その静かな空間が壊れてしまったことが残念で仕方なかっただけだ。しかし、いきなり残念扱いされた事にロクは、ぽかんとした表情を浮かべてしまう。
「えっ、あれ、僕そんなに君に失礼なことしたかな……?」
「あぁ、いや。すみません。他意はないんです」
「余計にタチ悪いよねそれ?!」
 コロコロと表情を変えるこの男は本当に残念だと、トモはつくづく思う。先程のように表情を消して静かに佇んでさえいれば、目の保養になるに違いないのに。昔の世界にもきっとロクのように黙っていれば美しさの権化のような人間がいたに違いない。だから、絵や彫刻にして、本物の芸術にしてその美しさを保存したに違いないと、根拠もなく、トモは確信のようなものを抱いた。
 その後もわぁわぁ喚くロクを半ば無視してトモはガラガラと台車を押して自宅へと向かった。流石にロクも商業地区を抜ける頃には静かになっていたが、ちらりとトモが表情を盗み見た限りはぶすくれていた。ロクの歳はいくつだっけ、とトモは思わず考えてしまう。そして、ロクの歳など知らないことに気づく。陶磁の様になめらかな肌、軽薄な唇は手入れなどしてるはずもないのに艶やかで、豊かな表情やおどけた動作も相まって若さ、というよりも幼ささえ感じられる。しかし、先ほど見た無表情に人ごみを眺める姿や、上手いこと言葉を操り人の心を見事に掴む様は、永い時を生きながらえた老人のような落ち着きと狡猾さがあった。
 そんなことを考えながら歩いていたからか、思っていたよりも早くトモは自宅の目の前まで来ていた。通り過ぎなかったのは、習慣というもののおかげか。トモはくるりと後ろに居るロクの方へ向いた。 「オレはまず貰った食材を置かなければならないので、適当にリビングで寛いでてください」
 トモがそう言ってやれば、ロクは意外そうな顔をした。とはいえ、それは自然なものではなくあからさまに作ったものであったが。ロクとしては散々な扱いを受けたことに対するお返しといったところだろう。
「おや。ではさようなら、なんて言われるかと思ってたよ」
「オレだって自分で言ったことにくらい責任持つんですよ」
 そう言いながらトモはガチャリと鍵を開けて、どうぞとロクを促した。
 トモはそのままガラガラと冷蔵庫へと向かっていく。十三番都市の冷蔵庫は、空がまだ青かった時代の家庭にあったそれよりだいぶ大きく、物置や倉庫と言われた方が昔の人は納得したかもしれないようなものだ。トモは手際良く、食材を冷蔵庫へ入れていった。すべて入れ終わるまでにものの五分もかからなかったのは、流石と言うべきか。トモがリビングへと足を運べば、きょろきょろと落ち着きもなく部屋を見渡しているロクがいた。
「なにか珍しいものでもありました?」
 少し怪訝なニュアンスを含ませながらトモがロクに尋ねる。声をかけられたロクは、部屋を見渡していたその流れでトモの方を見ると苦笑をこぼした。
「いや、失礼。そういえば、誰かの家にこういう形でお邪魔するのって初めてな気がしてさ。マサキや君がここで生まれ育って今なお生活してる空間だと思ったらなんかソワソワしちゃって」
「へえ意外ですね。押し売りとかしてそうなのに」
「君が僕に抱くイメージがだんだん掴めてきたよ……。ま、押し売りした事が無いって言ったら嘘になるけど。それでも、ゆっくりと家を観察する暇なんて無いし、良くて玄関先に上がらせてもらえる程度だしねぇ」
「なるほど」
 会話が途切れると同時に、ケトルが甲高く鳴いた。トモは、手慣れた様子でお茶をいれると、棚からカルメ焼きを出して一緒にテーブルへと置いた。
「こんな砂糖の塊でも、あればそこそこ場が華やぐもんでしょう?」
「えっ、これ砂糖の塊なの?」
 ロクはカルメ焼きを一つ手に取ると、匂いを嗅ぎ、二つに割って、一口それを齧った。
「甘っ……シンプルというか、素朴というか……あ、でもお茶と一緒に食べると美味しい」
 トモの目の前で百面相を繰り広げながら、ロクは二つに割ったうちの一つを食べ終えた。
「それにしてもロクさんがカルメ焼きを知らないのは意外でした。砂糖を水で溶いたものを熱して、重曹で膨らませたお菓子です。材料が砂糖と重曹と水だけなんで、このご時世でも割と気軽に作れますし、お茶請けとしてはなかなか優秀でしょう?」
 カルメ焼きを知らないと言うロクのために、トモが軽くカルメ焼きについて説明してやれば、ロクは感心したように何度か頷いてみせた。
「はーなるほどねえ。君のお父さんの直伝かい?」
「いいえ、兄から教わりました。正確には、母がよくニード兄さんに作っていたものらしいです。オレが幼い頃、ニード兄さんがオレとマサ兄にも作ってくれて、それで作り方を覚えました」
「ふぅん、お袋の味ってやつね」
 そう言ったロクの表情は、トモには何とも言えない哀愁に満ちているようにも見えたし、嘲笑を浮かべているようにも見えた。その真偽は分からないが、しげしげとカルメ焼きを眺めているロクにトモはだんだん親近感に近い感情を抱き始めていた。あの人はアレでなかなか厄介なんですよ、と言っていたマサキの言葉をトモは思い出す。なるほどこう言うことかと妙に腑に落ちた気がした。目の前にいる、この、美しいだけが取り柄のような闇商人は生温い優しさのようなものを垣間見せてくる。このカルメ焼きも、トモにとってお袋の味、などと言うような郷愁じみたものではないが、ロクがそう言うととたんにそう思えてくるから不思議だ。
「えぇ。それも、母はオレを生んですぐ死にましたから……オレの知ってる唯一の母の味です」
「それはそれは。最高のお茶請けを戴いてしまったようだ」
 故人のことを話しているのに、会話が暖かいのは、二人ともその故人のことを殆ど知らないからなのか、それともロクの会話の運びが上手いからなのか、トモには分からなかった。
 そして、ロクはもう片方のカルメ焼きを口に放り込むと、その表情を真面目なものへと変えた。
「さて、と。それじゃあいい加減、本題に入ろうか」
 ロクの言葉に、トモは何故この男が自分の目の前でお茶を啜っているのかを思い出した。トモの目の前にいるこの男は、余程の理由がなければ、こんなにしつこくトモに付き纏うはずがないのだ。そんな考えに思い至って、トモは少し身構えた。
「安心してよ。本当に悪い話じゃないんだ……あぁいやこの切り出し方は悪い話をするときの切り出し方だなぁ……えっと、うぅんと、そうだ。この間は美味しいアップルパイをどうも」
「えっ? あ、あぁ……はい……?」
 何か頼み事をされるのかと思えば、以前マサキを通して貰った林檎のお礼にアップルパイをあげた時の話をされトモは面食らった。しかし、ロクの表情は笑みを浮かべてはいるが、先程と同じような真面目なものである。
「アップルパイなんて、そうそう食べることができないってのもあるけど、君が作ったアップルパイは本当に美味しかった」
「あ、ありがとうございます」
「よく、作り方を知っていたね?」
 探るようなロクの問いかけに、レシピを貰う事が目的だったのかとトモは予想をつけた。そして、特に秘密にしているわけでもなんでもないので、欲しいのならとっととそう言えば良いのにと思う。
「フリニカル先生が持っていたレシピ本を以前貰ったんです。そこに書かれてました」
「それは、他にどんなレシピが載ってるの?」
「興味があるなら差し上げますけど?」
「あぁ、いや、レシピには興味無いんだ。どうせ作る暇なんてないし、レシピを売ったところでそんなに売れるとも思えないしね」
「はぁ……」
 トモの予想を裏切るロクの言葉に、いよいよトモはロクが何を言いたいのかが分からなくなった。そんなトモをよそに、ロクは言葉を選びながらも話を続けた。
「えっとね、つまり、アップルパイやケーキみたいな洋菓子っていうのは、知っての通り、かなり貴重な嗜好品だろう? 材料を手に入れるのも難しいから、作る人もそうそういない……まぁ、首都は別だろうけど」
「そうですね」
「でも、地方を相手に商売をするときはね、これが意外と役に立つ。取引をふっかける時に、金よりも役に立つことだってある」
「そんなもんですか」
「意外かい? まず、手土産で持っていくだろう? それだけで、話を聞いてもらえる確率がぐんと上がる。話を聞かなくったって、美味しいお菓子が食べれるのだもの。それだけで、僕としてはかなり違う。それに、そのお菓子を気に入ってもらえれば、そのお菓子を餌に次の約束を取り付けられるかも知れない。それから、人って生き物はね、何かを一緒に食べた相手には不思議と信頼感を抱きやすい……ちょうど、今の僕と君のようにね」
「あ……」
 そう言われて初めて、トモは最初、あんなにロクの話を聞くことを疎ましく思っていたのに、今はすんなりと話を聞く気になっている自分に気づき、思わず声がこぼれた。にこにことしているロクの顔がトモは少し恨めしかったが、お茶とお茶請けを出したのは他でもないトモ自身である。悔し紛れにカルメ焼きを齧って、お茶を啜れば、少しだけ気持ちが落ち着いた気がした。
「ふふ、つまりね、僕はこれから、たまにだけれど君にお菓子作りをたのみたいんだ。首都のものを買って行ったんじゃあ、消費期限が心許ないし、コストも高いし、味も不安だし、一々首都に足を運ぶのもめんどくさい。君に頼んでしまった方が僕としては助かるんだ。もちろん、材料はすべて僕が持つし、当然君は技師団のシフトを優先させてくれて良い。報酬は、材料を多めに渡すから余った分を貰って報酬に変えてくれないかな。頼むのは、君が持っているレシピにあるお菓子。それ以外を頼むときはレシピも一緒に持ってくるよ。この条件で、どう?」
「ひとつ聞いていいですか、なんでオレなんです?」
「そうだなあ……それに答える前に、僕のお願いを聞いてくれるかどうか答えてくれないかな」
トモはロクの言い分に少し考えてから、承諾の意を示した。それは、トモがトモ自身に不都合のある話ではないと思ったからだ。
「うん、ありがとう。それで、どうして君にお願いしようと思ったかなんだけどね、もちろん僕が知る中で君が一番美味しいお菓子を作れるっていうのもあるんだけど、一番は君が世間知らずのお人好しだからさ。君に頼めば、君は絶対断らないと言う自信があったし、君に話を聞かせるだけの話術くらい僕は持ってるんだよ」
「はい?」
 ここに来るまでに、散々ロクに対してぞんざいな態度を取ってきたのにも関わらず、お人好し、などと言われて思わずトモは素っ頓狂な声を上げた。そんなトモに対し、ロクは大仰にため息をついてみせる。ここに来るまでとはまったく正反対のような状況だと、第三者が見たら思うに違いない。
「君を誑かしっぱなしだと、いろんなところから苦情が来るから言うけどね、まず、よく知りもしない人を家に上げない。お茶もお菓子も出さない。さっきも言ったけどね、自分のテリトリーで物を食わすっていうのは、自身の警戒心を著しく下げる行為だ。僕なんかは、十三番都市を根城にしてる負い目もあるし、君相手にはしないけど、物を盗まれたり、乱暴されたり、そういうこともある。あまり人を信用しないことだ。それから、報酬の話もね、そんなに安請け合いするものじゃないよ。多めに、とはいえ本当に少ししか多く渡さないかもしれないでしょ? そうしたらどうするの? 泣き寝入りするの? それとも、作ったものを自分で食べちゃう? でも、それは君の契約違反になるよね? だって、確かに多くは渡されてるのだもの」
テーブルに肘をついて、トモの方を指差しながら淡々とロクはトモに説教をしていく。トモはと言えば、ロクが述べる自分の不手際に口をぽかんとあけるほかなかった。
「あーもーそんな間抜けな顔しちゃって……あぁ、安心して。報酬はきちんと、依頼分の他にもう一つ同じものが作れるくらいには多く材料渡してあげる。君がね、本当にいろんな人から大切に育てられたことはよくわかるよ。だけど、君はもう少し自分の目でモノを見て、自分の頭で考えるべきだ。あの白髪の学者サンや君のお父さんの目を通して見るのではなく、彼らのモノの考え方でモノを考えるのではなく、君自身で、それをした方が良い」
そう言って、最後の一つとなったカルメ焼きを取り上げながらロクは席を立った。
「最後のは、僕の親切心からの忠告。最高のお茶請けに対する心ばかしのお礼。それじゃあね。依頼の件よろしくね」
 ひらひらと手を振って家を出るロクを眺めながら、トモはロクに言われたことを反芻した。
「自分の目で、自分の頭で、ね」
カルメ焼きと引き換えに良い教訓を得たと思えばいいのか、ロクも大概お人よしだと笑えばいいのかトモにはよく分からなかった。しかし、今後ロクと少なからず交流を持つことになった事に対してトモは悪い気はしなかったし、少なくともロクが自分を害すると思えなかったからこそ、家に上げ、お茶を出し、依頼を受けたということをロクに伝えそびれたことが、なんだかトモは残念に思えた。