慈悲の話

 きゅっ、きゅっ、という規則的な甲高い音が、人の気配のない二階地区に響く。ここはかつて、富裕層の住宅地区だった。しかし、数十年前の貧困層による反乱によって、富裕層が住んでいたこの二階地区は打ち捨てられた。あまりにも、都市内での貧富の差が広がってしまったが故に起こった反乱だった。以来、都市民がここへ来ることは滅多にない。それでも、酷く埃っぽいという訳でもないのは、十三番都市全域に正常に機能する空気清浄機のおかげか、月に一度はこの地区を清掃する自警団の働きのおかげか、はたまた勝手に住み着いている「居候」と呼ばれる人達がいるからか。なんにせよ、見回りをする身としては有難いと今日の二階地区の見回り担当であるマサキは思う。
 静寂がたゆたう二階地区の見回りは、マサキの同僚や先輩に言わせれば地上勤務の次に嫌な仕事だったが、マサキに言わせてみれば、堅苦しい市民センター業務よりもずっとずっと気楽な仕事なのである。この場所の静寂がマサキは好きだった。たとえ、時折誰のものとも知れぬ死体が転がっていたとしてもだ。幼い頃は、自警団の見回りに見つからないように、マサキの妹分であるトモと一緒にここをよく探検したものだった。居候と遭遇したことも少なくない。死んでいる人もいれば、生きている人もいた。襲いかかられたことも、数回ではあれどあった。しかし、相手は大人とはいえ、地上をマスクもなしに這って来て弱っている人間に、もとより力の強いマサキが負けることはなかった。
 そんな風に、半ば思い出に浸りながら、死体を見つける度に清掃用の地図にチェックを入れつつマサキが歩いていると、遠くから微かに人の話す声が聞こえた。
 十三番都市が把握している居候はたった二人だけである。通常、十三番都市は居候には一切関与することはない。しかし、その二人に関しては都市民と交流があったり、長く住み着いていたりということもあり、都市に住むかなりの人数がその存在を認知しているのだった。一人は、地上を研究している変わり者の学者のフリニカル。もう一人は闇商人のロク。マサキはさらに、ロクに拾われたマモルという少年の存在を知っているが、それを都市には報告していない。本来ならば自警団員として速やかに報告すべきなのだろうが、マモルと知り合ったのが勤務外でのことだったことと、マモルと自分の境遇がどことなく似てたことで何となく言えずにいた。マサキが今いる場所は、ロクの根城からは遠い。どちらかといえば、フリニカルの住居のほうが近いだろう。そして、しんとした二階地区は思いの他音が良く響き、声はフリニカルの住居がある方から聞こえてきていた。これらの事実に嫌な予感を感じながら、マサキは声のする方へと向かっていった。
 しばらく歩くと、マサキの耳にもだいぶ声がはっきりと聞こえるようになった。男の声が二つ。その一つにマサキは聞き覚えがあった。少し歩みを早めれば、程なくしてスラリした背の高い男性の姿が見えた。長い白髪を後ろで一つに括っている。フリニカルだった。
「……遅かったか」
 思わずマサキが零した呟きに、フリニカルが振り返った。少し、驚いた表情をしていたが、アーモンド型と言うには少々丸っこい大きな青い瞳がマサキを捉えると、ほっとした顔になる。フリニカルの手には血に濡れたナイフが握られていた。彼の足元には、喉元から血を流して倒れている男が、その男の隣には外傷の見当たらない女が倒れていた。
「フリニカル先生、もう何度も言ってますが、滅多なことは控えてください」
「ん、あぁいや。今日の担当がマサキ君で助かったよ」
「ホントっすよ」
 状況からして、フリニカルがこの男を殺したことは明らかだ。しかし、マサキは動じず、フリニカルを糾弾することもしなかった。それは、似たような光景を何度か目撃しているからにほかならない。
「でもまぁ、俺も勤務中なんで一応訪ねますよ。彼らを殺したのは先生ですか」
「いや、男の方だけだね」
 ため息混じりのマサキの問いにもフリニカルは淡々と答えを返す。そんなフリニカルの態度にマサキは頭痛を感じつつも、自分の勤めを果たしていく。
「それは何故ですか」
「彼のね、恋人が地上の毒で死んでしまったそうだ。彼も長くない。それなら一刻も早く彼女の元へ逝きたいと頼まれたからね」
「そんなことだろうと思いました」
 顔色一つ変えずに、穏やかにそう告げるフリニカルにマサキはとうとう大きくため息をついた。数ある居候たちとの邂逅のなかでも、マサキにとってフリニカルとの出会いは特別だったと言える。マサキは、フリニカルのことを今でも先生と呼び慕い、足繁く彼の元に通うが、彼とマサキの間に嫌な思い出がなかったわけではない。それは、フリニカルの、人としての倫理観というものが欠如しているような振る舞いに所以するものが多い。今日のように、死を望む人の願いを何の躊躇いも無く叶える姿を見た時などは、特に顕著にマサキはそんな思い出を想起させた。
「慈悲っすか」
 思わずマサキの発した言葉には、嘲笑混じりに吐き捨てたかのような、そんな響きがあった。自分らしくもないその言葉に、苦々しい思いがしてマサキは手で口を覆う。しかし、フリニカルはマサキのそんな態度にさえ気にした様子はなかった。
「彼らや君がそう捉えるのなら、そうかも知れないね。けれど、私がしたことは紛れもなく殺人であって、それ以外の何ものでもない……私より君の方がそれはよく知っているとは思うけれど」
 このやりとりも、もう恒例と言って差し支えない。マサキはフリニカルのこの台詞を聞く度に、頼むからこの行為を慈悲だと言って欲しいという気持ちが沸き起こった。それは、自警団員であるマサキがフリニカルのこの行為を見逃す口実が欲しいというのもあったが、自分が慕う者が淡々と人を殺しているという事実からなるべく目をそらしたいという気持ちもあるのだろう。
 自分以外に、フリニカルが人を殺す姿を目撃されていないのは奇跡としかマサキは思えなかった。しかし、幼い頃からここを歩きなれているマサキはともかく、他の自警団員にとっては声に気づけても、その方向に正確に、そして素早く移動することは困難だった。そのうちにフリニカルは立ち去り、後には死体だけが残る。死体の報告はされるが、殺されたのが都市民ではないことから特に重要視もされず、居候同士の諍いが原因とされるのが常だ。その結論は決して間違いではないのだが、ともかく、マサキ以外にフリニカルによる殺人が何度も行われているということを知る者はいない。
 さて、毎度のことながらこれはどう報告したものかとマサキが寄り添うように並んでいる二つの死体を見下ろせば、安らかに微笑んでいる男の顔に気づいた。
「……恋人を失ったことによる自殺、ということにしましょう」
 ゆうるりと、先程から一向に引かない頭痛から逃げるようにマサキは頭を振った。
 遅かれ早かれ、この男は死んだのだろうし、フリニカルが手を下さずとも結果は同じだっただろう。マサキはそう思いつつも、死体から顔を挙げてフリニカルの方を見ることができなかった。
 このご時勢でも殺人は重罪だって言うんだから笑えちゃうね、とユキがいつだったかぽつりと呟いた言葉をマサキは思い出す。あれは、一番最近のマサキが居候だったモノを焼く当番の時だった。ユキは、地下都市の空気を受け付けないという特殊体質のため、地上で暮らしている。それゆえ、いつも地上で死体を焼くときはユキが当番でなくとも、彼女はその光景を見ていた。その日もユキは、笑えちゃう、などと言いながらも、他の都市の人たちに見つからないような死角になる場所で、体質がバレないようにといつも着けている壊れたガスマスクを外して、燃え盛る炎を見つめていた。熱風で舞い上がるユキの亜麻色の髪から覘く、その表情は決して笑っていなかった。その言葉に、マサキはなんと返したか思い出せない。あるいは、何も言わなかったのかもしれない。とにかく、マサキは記憶の中のユキに、笑えないよ、と返したくて仕方がなかった。笑えるはずがない。見知らぬ人の死体を見る度に、マサキの胸は悲しみで軋むのだから。
「……最初にフリニカル先生による殺人現場を見たのはいつでしたっけ」
 なんとなくマサキの口をついて出た疑問に、フリニカルはのんびりと答える。
「マサキくんもトモちゃんも都市民になる前の話だから……そうだね五年くらいは前になるかな」
「俺もトモちゃんも、よくもまあ未だにあなたを先生と呼び慕っているものだと、時々思います」
「おや」
 言外に意外だというニュアンスを含ませながらフリニカルは少し笑った。
「私は初めて君たちに先生と呼ばれた日から、よくもまあこんな人間を先生と呼ぶものだと思っていたよ」
 階下の喧騒など知らぬ存ぜぬといった二階地区の静けさに、フリニカルの柔らかに笑う声だけが響いた。人々がざわめく十三番都市では、フリニカルの笑顔は見れても、微かなこの笑い声は聞こえないだろう。打ち捨てられたこの場所はもう十三番都市ではないのかもしれない。ふと、マサキの脳裏にフリニカルの住居の片隅に置いてあったセロが思い浮かんだ。この二階地区のように、誰かに忘れ去られてしまった木製の弦楽器。好奇心に手を触れた妹分が鳴らした、低く、澄んだその音は、持ち主であるフリニカルの声に良く似ている気がした。
「いいえ。あなたは、それでも先生と呼ばれるに相応しい人だと俺は思います」
 ポツリと一滴の雨が地上に落ちた時のように、マサキの口からこぼれた言葉を皮切りにマサキの心には様々な思いが溢れていった。
「だからこそ分からない! ……あなたが、平気な顔をして人を殺して……でもそれはあなたが殺した人が望んでいたことで、でも人を殺すのはいけないことで……」
「マサキ君、君は何故、人を殺してはいけないと思う?」
「何故ってそりゃ……」
 あくまでも穏やかなフリニカルの問いに、マサキは言葉を見失う。
「駄目なものは駄目だから、です」
 暫くの逡巡の後、マサキの口から出てきたのは子供が述べるような理屈にもなっていない幼稚な言葉だった。それでも、フリニカルはマサキのその言葉に満足げに頷いてみせた。
「なら、それだけで良いのでは?」
「それだけで……って言われましても」
「マサキ君、私もね、実は君と同じ人間なんだよ」
 眉尻を下げて完全に困り果てた情けない表情のマサキとは対照的に、フリニカルは実に楽しそうに笑った。
「君も、トモちゃんも、まるで私のことを完全無欠のような人間のように扱うけれど、そんなことはないのだからね。君も、私も、違う価値観の中で生きている。それでも、君の幼少の一部に私が存在する限り君の価値観に私の価値観が影響してることを私は否定しない。でもね、私と君は違う価値観、違う道徳観の中で生きている。そうじゃないかな」
 そうして語るフリニカルの顔をマサキはずっと眺めていた。いつも穏やかな笑みを浮かべているフリニカルだったが、いつの間にかその表情はどこか遠くを見つめるようなそれに変わっていた。
「もし、君が私を先生と慕うのであれば、私が良いと思うことを取り入れるだけでなく、私の価値観と剃り合わない君の価値観をこそ大事にしなさい。何故、それを受け入れ難いのか君自身で考えなさい。誰かを師とするのはそういう事でもあるんだよ」
 もう一度、フリニカルがマサキに向き直った時、フリニカルの表情はいつもの優しいそれに戻っていた。死体が二つ足元に転がるこの血なまぐさいこの状況にそぐわない優しい表情だとマサキは思った。そして、フリニカルはそのままマサキへと手を伸ばして、それから引っ込めた。そのまま自身の手についた乾きかけの血へとフリニカルは視線を移す。
「マサキ君に血がついてしまうところだったね。いや、そもそも君はもう子供じゃなかった」
 マサキは、そろそろ見回りに戻らないと、と思いながらもフリニカルにどうしても訊かずにはいられなかった。
「先生は、それを慈悲と呼ばないのであれば、何故死を望んだ人の願いをそのまま叶えるんですか」
 その声が、あんまりにも情けないものだったからマサキは自分でもなんだか遣る瀬無くなってしまった。その手を血で汚してなお、師と慕う目の前の男はぴんと背筋を伸ばして、方向を見失ってしまったマサキに、方角の標を示してくれる。フリニカルが行う静かな殺戮には悪意もなければ慈悲もない。そこにはいつも、ただ単純に死という事実だけが横たわっていた。転んだ子供に手を差し出すように、フリニカルは死を欲した人に死を与えた。地上を這ってようやくたどり着いた居候たちを見ないふりして生きる自分と、どちらが残酷だろうかという考えがふつとマサキの頭を過ぎった。
 まるで、幼い頃に戻ったみたいだとマサキは思う。フリニカルの出した問題を解くことができずに途方に暮れて、フリニカルに答えをせがんだときのあの気持ちに似ていた。自分がなんだか情けないような、ちっぽけなような、まるで格好のつかない感情だ。ややあって、フリニカルは口を開いた。
「もし、私が同じような立場だったとしたならば……そうして欲しいからだろうか」
 どこか疑問を呈したその物言いをしたフリニカルは少し困った表情を見せた。そのことに、フリニカルのその言葉にマサキはもうどうしようもなく悲しくなってしまった。もしも、フリニカルが死にかけて、自分に死を与えてくれと望んだならば、とマサキは考えて、そのおぞましい想像に今度は恐ろしくなった。有り得ない話ではないのだ。いつの間にか握っていた拳には、ギリギリと音を立てそうなくらい力が入っていた。マサキが心を落ちつけようとゆっくりと息を吸うと、清浄機によって無機質になった無味無臭の空気が肺を満たす。いつの間にか血の匂いは気にならなくなっていた。都市の空気はいつだってきれいだ。機械のおかげで空気が淀むことは無い。地上の汚染された自由な空気とは違う、無菌の詰まらない空気だ。けれど、それを吐き出せばマサキの心はいくらか落ち着いた。
「俺は、先生がもしそうなって、俺に殺してくれと頼んだとしても……先生にはどうしても……生きてて欲しいっす。俺にはあなたを殺すことはできません」
 そうしてようやく絞り出した答えをフリニカルは軽く頷くことで受け取る。まるで、フリニカルにはその答えが来ることをわかっていたかのようだとマサキは思った。あるいは、本当に分かっていたのかもしれない。
「見知らぬ誰かにも、マサキ君は同じことを思うのだろうね」
 深く美しい全てを見透かすフリニカルの青の瞳が慈愛を持ってマサキを見止める。そうだろうか、とマサキは考える。見知らぬ誰かにも、生きてて欲しいと自分は思っているのか、それはマサキには分からなかった。幼い頃、両親と地上をさ迷い、この十三番都市に辿りついてイサクに拾われた事が奇跡に近い幸運だったということはマサキはよく理解している。ここはもう、地下から一歩外に出たらそこは死の蔓延る世界だ。人だったものをもうマサキは何度もその死の蔓延る世界で荼毘に付している。その、地獄の光景を思い出しながら、マサキは自分にもまだ、見知らぬ誰かの死を悼める心が残っていることを祈った。
「私が言うのもなんだけど、マサキ君はそろそろ見回りに戻らないといけないのではないかな」
 マサキが自分の腕時計を確認すると、そろそろ上司に報告に向かう予定の時間が近づいていた。
「あっぶね……。あ、フリニカル先生、言っても無駄だとは思うんすけど、マジで滅多なことは控えてくださいよ!」
 足元に転がる二体の死体に軽く黙祷を捧げて、マサキは駆け出した。視界の端でフリニカルが暢気に手を振るのが見えたが、マサキはそれには応えずに、ただひたすらに人で賑わう階下へと戻っていった。フリニカルの手によって葬られ、マサキが無自覚にも打ち捨てた二体の死体のように打ち捨てられた二階地区の見回りはもう終わったのだ。