エデンにて

※素人の中途半端な知識
※特に宗教批判とか特定の思想を支持、肯定するものではありません。
※強いて言うならば、哲学、倫理学、心理学、自国文化学的日本文化学の講義を受けた感想文。







 閑静な住宅街にひっそりと佇む教会に遊びに行くのが少女は好きでした。別段、両親が熱心なキリシタンというわけでもなかったのですが、静かに教団で本を読むのが好きなどこかのんびりとした雰囲気をまとう神父さまに会いに行くのが少女は好きでした。
 少女は好奇心旺盛でした。そして、他の子供たちよりもほんのちょっと、理解力に長けていました。そんな彼女は世界に色んな疑問を持っていました。それをお母さんに聞いてもお父さんに聞いてもなんとなくはぐらかされているのを常々少女は感じていました。
”お前はまだ子供だから””お前にはまだ早い”
 そんな言葉に少女は納得するはずもありません。しかし、神父さまにそれらのことを尋ねたときには、教えられないことはきちんとその理由を述べて、それ以外のことはしっかり答えてくれました。少女は神父様のことが大好きでした。
 神父さまは、勤勉で信心深い人だと近所で評判でした。キリシタンでない人からも慕われる、そんな人でした。
 大好きな神父さまなのだから当然だわ、と少女は思います。少女は神父さまは神様に仕えるとってもとっても尊敬できる人なのだと思っていました。
 教会には、たくさんの本がありました。難しい本も、そうでない本も、少女が何とか読めるレベルの本もたくさんありました。神父さまは、それらの本を自由に読ませてくれました。お父さんやお母さんみたいに、それはまだ難しいからと禁止されることもありませんでした。難しかったらそれはそれでいいのです。
 少女のお気に入りは、聖書でした。子供向けの簡単なものからまず読み、今では翻訳されたものを読むことができます。神父さまはそれにはちょっと驚いて、それから、偉いねと頭を撫でてくれました。
 ある日、少女は神父さまに尋ねました。
「ねぇ、神父さま。神様はどこにいらっしゃるのかしら? やっぱり天国かしら」
「それでは、特別にこっそり秘密を打ち明けてあげましょう」
 神父様は優しく微笑まれると、身をかがめて恭しくそっと少女の耳に唇を寄せました。
「神など、いないのですよ」
 少女は驚きに目を見開き、とんでもないことを聞いてしまったと思いました。信心深いと評判の神父さまは実は神様など信じてはいないというのですから。少女は震える身体を必死で押さえ、神父さまのことをそっと伺い見ました。神父さまは先ほどと変わらず静かに微笑まれているだけでした。そこには少女の思う神様を否定したことへの罪深さは感じられませんでした。少女は不思議に思います。
 優しく、聡明な神父さまのことですからきっと特別な理由があるのだわと少女は考えました。きっと神様と似たようなものを信じてるのだと思いました。
 好奇心の強い少女はそれがなんなのか知りたくなりました。
「それじゃぁ、神父さま。神父さまは何を信じてらっしゃるの?」
「総てを創りたもうた、主を」
 少女はまたも驚きました。世界を創ったのは神様ではないと神父さまがおっしゃったのですから。
「でも神父さま。聖書には神様が世界を創ったと書いてありました」
 神父さまは少女の問いにゆるりと首を振ると、少女の柔らかな髪を優しく撫でました。
「それが日本の聡明かつ勤勉たるところなのでしょう。でもね、間違ってはいけません。言葉には言葉そのものの意味があるのです。それを別の言葉に置き換えたとき、元の言葉の根本的な意味、性質、感情はどうしても失われてしまうものなのです。感じるべきものを置き去りにしてしまう。よくお聞きなさい。神とは人なのです」
 優しく歌うような声でした。少女は首を傾げます。
「それじゃぁ、聖書は間違って翻訳されてるの?」
「いいえ、いいえ、そうではないのですよ」
「よくわからない。難しいのね」
 少女は少し拗ねた気持ちになりました。何でも噛み砕いて教えてくれる神父さまが今日は妙に意地悪に感じました。答えの周りだけをぐるぐるぐるぐる回ってるような感じがしました。
「えぇ、そうです。難しいのですよ。私にも、よく分からないことなのです」
 神父さまは、のんびりとした口調でそう告げました。うつむく少女の傍で少し笑った気配がします。
「神父さまでも分からないことがあるのね」
「勿論。それこそ、私は神ではありませんから」
 そうして、初めて少女は少しだけ、神父さまの言ったことが分かったような気がしました。神父さまが自分を神でないといったとき、少女は少し驚いてしまったのです。少女はどこかで神父さまを神様と同一視していたようでした。
「それじゃぁ、神父さま。すべてをつくりたもうた主はどこにいらっしゃるの? エデン?」
「それはですね、どこにもいませんし、どこにでもいるのです」
 今度は、神父さまは少し真面目なお顔をしてらっしゃいました。
「あなたは、自分がどこから来たのか、世界がどこから来たとおもいますか」
「え、うーん……」
 少女は考えました。人間は猿から進化したと本に書いてありました。総ての生き物は進化によって生まれたと書いてありました。でも一番最初は誰にも分からないのです。
 とうとう少女は観念して、呟きました。
「……分かりません、神父さま」
 神父さまはそんな少女の様子に少し顔をほころばせて言いました。
「それと同じことなのですよ。自分に解り得ない存在を心から信じ、畏れ、敬愛する。それこそが愛で、人が救われるということだと私は思うのです」
「分からないのに、信じるんですか?」
「えぇ、それを心から信じられたとき、人は幸せになれるのです」
 少女は、そっと思いました。お母さんとお父さんは正しかった。世界の秘密は少女には大きすぎたのです。