死にたがりの化け物

 目が覚めたら、知らない部屋の中にいた。口の中には唾液がたまっていてごくりとそれを飲み込むと部屋の中が良い匂いで満たされていることに気づく。部屋の主が何か料理でも作っているのだろうか。スパイスが効いたような、けれど、何処か甘い匂いは食欲をわき立たせて空腹の自分の状態には酷くつらい。料理が完成したら少し分けてもらえないだろうかと考えてはたと自分が何故ここにいるのか考える。
 恐らく、空腹でぶっ倒れたのだろうが、そんな自分を拾う物好きがいるのだろうか。
 くらくらと頭が揺れる感覚に意識を持っていかれそうになるのをグッと耐える。ここで気を抜いてしまえば気を失うならまだしも理性を失いかねない。ここはどうも匂う。自分の忌まわしい本能を刺激する匂いだ。
「あ、起きた?」
 匂いがいっそうきつくなったかと思えば、どうやらこの部屋の主らしい人物がひょこりと顔を出した。白髪に真っ白な肌。色素を持たない華奢な背の高い男だった。
「……まず、俺が何でここにいるかきいても良いですか」
 匂いが辺りに充満する。思考を鈍らせる。ここまできたら拷問だと思った。食欲を刺激する濃厚な匂いは、どうやら料理などではなくこの男から発せられているようだ。
「ん、行き倒れてたもんだから思わず家に上げたんだよ。だってほらお前はヴァンパイアだろう?」
 男の言葉に硬直する。確かに、自分は夜の世界に生きるヴァンパイアである。しかし、見た目はただの人と変わらないはずの自分を何故一目見ただけでヴァンパイアと見抜いたのか、もしかしてヴァンパイアハンター協会のものかと警戒する。
「そんな警戒しないで……ちょっとヴァンパイアとは縁があるもんでね。それにお前、牙、出てるよ」
 バッと犬歯の部分を触ってみれば、確かに通常よりも牙が長く鋭くなっていて自分が本当に餓死寸前の状態なのだと思い知らされる。そして同時に、この人間はなんてお人好しなのだろうとも。自分以外の餓死寸前のヴァンパイアなんて拾ったら、理性が吹っ飛んだ状態で生き血を総て啜られてしまうだろう。ましてや、その匂いなら。
「まあ、おれの可愛い妹にこんなことしたのがバレたらめちゃくちゃ怒られちゃうけれどね」
「もしかして、ニイドギンさん、っすか?」
 この、本能を直接犯すような匂いを持つヴァンパイアと関わりのある人間に一人だけ心当たりがある。
「あれ、おれのこと知ってるの?」
 男は知らない化け物に名前を言い当てたれたにもかかわらず、きょとんと目を丸くさせただけだった。警戒心も何もない。自分も、それほど警戒心があるほうではないが、生を半ば放棄してるヴァンパイアの自分と、捕食される側の人間とではわけが違う。
「こっちの世界じゃ有名っすから……」
「そんなもん? あ、お前名前は?」
「……もう出て行くんで名乗らないでおきます」
 だるい身体に鞭打ち、もっていかれそうになる思考を必死で制しながら立ち上がろうとすると、ニイドギンが俺を押さえ込んだ。
「もう、出て行くって言ってもそんな状態じゃ無茶だろう。ほら、おれの血ちょっと飲ませてあげるから……」
 そう言って腕を切ろうとする彼に血の気が引く。
「それだけはやめてください!」
 自分でも、驚くほど強い力でギンが持っていた刃物を弾き飛ばしていた。
「あんた、六さんのお気に入りでしょう……他のヴァンパイアのお気に入りには極力手出ししないって言うのがこの世界の暗黙の了解なんです。まして、純血のお気に入りに手を出すなんて……」
「あいつのお気に入りって……俺の血を飲んだくらいで怒るような奴じゃないだろあいつは」
「あんたは分かってない。それに、理由はそれだけじゃない。俺、人の血飲んでまで生きていたくないんですよ」
 そう告げたら、ニイドギンは不可解そうな顔をした。気持ちは分からなくはない。人の血を嫌う変わり者のヴァンパイアとして自分もそれなりに有名であることは自覚している。
「あんたの血は間違いなく美味い。正直、今も理性ぶっ飛ばしそうになるの必死で抑えてますから……一口でもあんたの血を飲んだらきっと、もう、俺は一生人の生き血を啜り続ける生き物になってしまう」
「既にそうなんじゃないの?」
「気持ちの問題っす。だから、ほっといてください。アンタがニイドギンなら、きっと赤髪のハンターが近くにいるはず……理性ぶっ飛ばして人を襲う前にきっと死ねる」
 そう告げれば、今度は妨害もなく立ち上がりニイドギンの横をすり抜けることができた。
「ねえ、どうせ最後ならやっぱり名前教えてよ」
 ドアを開けたところでそう声をかけられる。
「……斉藤正樹です」
 魅惑的な匂いから、嗅ぎなれた埃にまみれた空気に変わりホッと息をつく。今度こそ死ねるといい。闇の生き物にも神の慈悲というものが与えられるなら、動物だろうが魚だろうが虫だろうが何でもいいから人に恐れられず、正しく食物連鎖の中に取り込まれた存在になりたいと願う。できれば草食動物が良い。誰も襲う必要もない、優しい存在になりたいと思う。
 ニイドギンの部屋をでてから、適当に外をぶらついた。ニイドギンは俺らの世界でも、ハンターたちの間でも要注意人物となっているからきっと見張りのハンターかギンさんを気に入ってるヴァンパイアかが俺を殺しにかかってくるだろう。ハンターは言わずもがな、ヴァンパイアの執着心を嘗めてはいけない。俺もヴァンパイアだからよくわかる。俺らは偏執的だ。ただ、俺の場合執着してるものが人の血ではなく、自分の死だというだけで。
 しかし。死というものはなかなかやっかいで、死にたい死にたいと思っている者の前にはどうしてなかなか現れてはくれない。現実として、ようやく俺の近くに来たのは使途はほど遠い馴れた気配だった。
「あーあ……見つけちまった」
「探さなければいいだろ」
 面倒くさそうに呟いた、黒髪の華奢な少年は俺の両親が仕えるヴァンパイアであり、ギンさんを気に入ってる張本人、六さんの実の息子の守だ。実の息子と言っても、人間との間に生まれたハーフである。そんなに面倒なら探さないで放っておいてくれればいいのに、とは思うがそれこそきっと理屈じゃないのだろう。長い前髪と、守の小さな顔に対して大きな眼鏡の隙間から、目付きの悪い青い瞳が剣呑な光を帯びて細められた。
 守はどさりと抱えてたモノをこちらに寄越す。
「おら、目の前で死なれたら厄介だからとっとと食事しろ」
 目の前で気絶している人間は確かに"美味しそう"だ。けれど、どうやったって自分からは食事しようという気になれない。いつものことだ。守も、もう俺が自ら食事をするということを期待していないらしくその人間に噛みついたかと思うと、もう空腹でろくに動けない俺にそのまま口移しで血を飲ませにかかってくる。ゆるりと抵抗してみるが、餓死寸前の俺の抵抗など抵抗してるうちに入りやしない。守の唇が俺の唇に触れたかと思うと遠慮も色気もへったくれもなく舌を差し込んで血を流し込んでくる。確実に俺が飲み込むようにご丁寧に鼻までつまんで。上等なワインにも似た豊満な香りが口一杯に広がる。
「んっ、ぐ……」
 飲んだ。結局飲んでしまった。
「ちっ、っんとにうぜぇ」
 思考がクリアになり、体に活力が戻る。あぁ、また死に損ねたな、なんて。五感がまた研ぎ澄まされていく。そして、近くにハンターがいることにようやく気づいた。
「てめぇがなんとかしろよ正樹」
 なんとかするには、自分からその人間の血を飲まないといけないんですがね、守さん。ハンターを目前にしてそれでもためらう俺にカナが少し焦り始める。ハンターはもう、すぐ、目の前に。
「見つけたぞヴァンパイアども」
 鮮やかな緋色の髪と瞳をした少女と、淡い亜麻色の可愛らしい顔立ちの少女。有名な二人組のハンターだ。
「人の兄貴によくもまあそんなに執着するもんだ」
「僕は執着したくなる気持ち、分かるけどね」
 緋色の髪と瞳を持った少女は、ニイドギンの実の妹だという噂を耳にした事があるが、どうやら本当だったらしい。可愛らしい彼女の相棒は、純血の血をほんの少しだけ継いでるのだとか。華奢な少女二人だが、実力は本物で、何人ものヴァンパイアがこの二人に殺されている。
 ハンターが現れると同時に守はさっと俺の後ろに隠れて猫をかぶる。実際、純血の血を継いでるとは言え、ハーフの守じゃハンターに勝ち目はない。守がまだ眷属のハーフなら良かったのだが、生憎、純血のハーフは粛清対象だ。
「正樹……俺、死にたくねえ……助けろ」
 か弱そうに、それでも俺の服を強く掴んでじっとみつめる守の瞳は雄弁に"とっとと人の血を飲んでこの状況どうにかしろ"と言っている。ハンターに対して俺一人の状況だったなら、諸手をあげて殺されに行ったのにさすがに守を俺の自殺願望に付き合わせる気はない。死にたくない、は間違いなく守の本音だろうから。
 ため息をついて、気合いをいれてから足元に転がっている人間の首筋に牙をたてた。
「随分なめた真似をしてくれるな?」
 そんな台詞と共にハンターが臨戦体制に入った気配がする。久々にまともに食事をしたからか、自分の感覚の鋭さに戸惑う。口からこぼれた血を指ですくってぺろりとなめれば、周りから息をのむ音が聞こえた。  ヘタレな性分に反して皮肉なことに俺はどうやらヴァンパイアとしては一流らしい。いつだったか、初めて人の血を飲んだときにおまえはきっと主様の助けになる素晴らしいヴァンパイアになるだろうと両親が泣いて喜んでいたことを思い出す。
 血を飲んで活力が満ちるこの身体が恨めしい。
「守、逃げれれば良いよな?」
「えっ」
 普通のヴァンパイアなら、ここでハンター相手に嬉々として戦うことだろう。しかし、俺は生憎と変なヴァンパイアだ。俺以外なら決してしないような自殺行為くらいならなんでもなくやってのける。
「馬鹿な……っ!?」
 折角飲んだ血を霧にして吐き出してやる。俺以外なら絶対やらないであろう行為にハンターが戸惑うのがわかった。そのうちに守を抱えて全力ではしる。伊達にいつも餓死寸前でいる訳じゃないらしく、多少腹が満たされている状態でハンターから逃げる事は簡単にできた。