緋色に導かれて

 俺の故郷は、南部の最南端にある小さな島々が集まって出来た海洋国家でも特に小さい島にあるたった一つの漁村だ。海は豊かで、森は雄大で、人々は優しく、餓えや渇きを知らない長閑で良い村だと思う。それでも、大らかにたゆたう大海原を見るたびに、冬の透き通る晴天の中うっすらと浮かぶ島々を見るたびに、この島の外を見てみたいという気持ちは俺が成長すると同時に膨らんでいった。けれど、俺は力が強くて体力もあるから、野生動物が出たならば退治するのに力を揮い、畑を耕す時は誰よりも多くの土地を耕し、漁の網を引く日は手伝いに行き、土木仕事の時は誰よりも役に立っていたと思う。だから、両親にはもちろん、村の誰にもそんな話はできなかった。いや、それは今思えば自分への言い訳だったのだろう。言えば、村の人は快く俺を見送ってくれたはずだ。けれど、俺は俺の力の強さが村には必要だということを一つの言い訳に、その気持ちに蓋をした。一人でこの心地よい場所を離れる決断をする勇気は俺には無かったから。
 そんなある日、他の村との交流すらほとんどない俺の故郷に一人の旅人がやって来た。月に一度だけある本土との定期便に乗ってやって来たその旅人は、一瞬で目が奪われるような鮮やかな緋色の髪と瞳を持った女性だった。滅多に来ない客人に村は沸き立ち、村人ほとんど総出で彼女を歓迎した。彼女は、俺たちの歓迎に純粋に驚いていた。後から聞いた話だけど、他と交流を持たないほとんどの村は余所者に対して冷たいらしい。定期便の関係もあるだろうが、俺たちの歓迎も相まって彼女は一ヶ月ほどこの村に滞在した。村でチラチラと彼女を見かけるたびに、俺は外の話を聞いてみたい衝動に駆られるのだが、ヘタレな性分のおかげでなかなか直接彼女に話しかける事が出来ずに居た。村人たちは、彼女が滞在してる間しょっちゅう宴会を開いて、彼女に外の話をせがんだから、別に俺が直接話す必要がなかったという事もあるのだけど。  彼女の話はとても興味深かった。彼女は中部の名も無い小さな農村の生まれらしい。そんな生まれに共感する部分も多かったからだろうか、俺を含め、村人のほとんどが彼女の視点で語られる旅の話を大きな共感を持って聞く事ができた。
「最初の頃は、国内を旅してたんだ。大きな街を見に行っては家に帰ってを繰り返した。中部の首都に行ったときはそりゃあ、興奮したな。人がいっぱい居たし、至る所に露店が出てて、色んな地域の食べ物が売られてた。あぁ、この国の……えぇっとスシ? もそこで食った。でも、やっぱりスシはこの国で食べたやつの方が美味しかったな」
「二十歳を超えて、とうとう我慢できなくなってまずは南部を旅しようと思って、東側から南に下り始めたんだ。そうだ、南部で最初の街胡散臭い商人と出会ってさ。そいつは最初オレが旅人だと分かると何にでも訊く妙薬やら、人魚の涙やら胡散臭い商品を売りつけようとしてきたんだ。まあ、もちろん買わなかったけど。夢見の心臓だなんて悪趣味なものもあったな……持っていると幸運が訪れるとか言われたけどそんな馬鹿な話があってたまるかってな」
 彼女が語る旅の話は、彼女の感じた感動と興奮がそのまま伝わってくるかのような臨場感があった。実際、彼女はものを語るのが上手かったのであろう。キラキラとした瞳に子供のような表情は村の人たちにとても良く気に入られた。俺の故郷に滞在していたときの彼女はそんな風だったから俺は最初彼女は俺とそんなに歳が変わらないと思い込んでいた。彼女が俺よりも五つも年上だと知ったときはめちゃくちゃ驚いた。彼女は呆れていた。
 とにかく、彼女の話を毎晩のように聞いてるうちに俺はもう旅に出たくて出たくて仕方がなくなった。それは、彼女が俺の故郷を発つ二日前だっただろうか。俺は彼女に傭兵として雇ってくれないかと頼んだ。傭兵として、というのは俺が彼女の旅に同行するためのお金がなかったというのと、それを補う為に自分が出来る事と言えば彼女の用心棒くらいしか思いつかなかったからだ。彼女は俺の申し出にだいぶ渋った。最終的に、俺が両親に旅に出たいという話をしてない事から、とりあえず話をしてこいと言われた。当然、俺の両親はそれを快く思わなかった。ただ、どうしてもと言うのであれば止める事などできないけれど、と両親が呟いた時に俺の行動は決まった。彼女にはこの事を告げずに勝手に着いていこうと。俺の両親が彼女に俺に黙って出て行くように頼む事は予想がついたから、一番近い定期便で彼女は旅に出るだろうと当たりをつけた。そして、定期便が出る日の、まだ夜明けの前兆さえ感じさせない闇の中、俺はそっと家を抜け出そうとした。けれど、家の卓袱台の上には仄かな灯りが点っていて一枚の置き手紙とお金の入った袋が置かれていた。手紙には、うちの馬鹿息子をよろしくお願いしますとだけ書かれていたから、これは彼女への手紙とお金なのだ。俺の世話料を両親がなけなしの金で用意したのだ。正直、泣きそうになったし、旅に出るのを止めようかとも思った。このまま朝を迎えて、親父とお袋にいつも通りおはようと挨拶をしていつも通りに、これからも今まで通りに暮らそうかと。けれど、緋色の瞳をキラキラと輝かせながら語られた旅の話が木霊する。寝床に戻っていつもの日常へ帰ろうと言う俺の心の声を無視して俺の足は船着き場へと向かう。
「俺も、今日旅立つ旅人さんと一緒に乗せて下さい」
 船乗りさんたちへ頭を下げ、話をつけた頃、夜明けとともに彼女がやって来た。
「今日は、よろしくお願いします」
 夜明けのほの暗さの中で俺に気づく事無くそう言って頭を下げた彼女に対して俺が返事をすると彼女は驚きと呆れの混じった反応を返して来た。船乗りさんたちに諭され、渋々俺の同行を認めた彼女の名前を俺はその時初めて知った。
「オレの名前はトモだ」
 そう告げて、差し出された手の感触を俺は多分一生忘れない。俺が、生まれて初めて出会った村の外の人で、俺が生まれて初めて握手をした手だ。俺に比べたらずっとずっと華奢なその手は、けれど、農作業の厳しさを知っている手だった。
 一応、彼女が雇い主になるという事で、さん付けで呼ぶのはちょっと馴れ馴れしすぎるような、ケジメがつかないような気がして試しに姉御と呼んでみたら思いの外しっくりきたので、俺は彼女をそう呼ぶ事にした。彼女は、そう呼ばれる事を最後まで嫌がったが、結局諦めてその呼び方で納得してくれた。
 彼女とは一年くらい一緒に旅をしていただろうか。南部の東側から下って来た彼女は、今度は西から中部へ戻る、という事だった。彼女との旅は、俺が想像していたよりもずっとずっと、感動に満ちていた。旅立つ前、彼女が散々脅すから世の中には酷い人がたくさんいて、俺たちに害を及ぼすものだと覚悟をしていたのだけれど、世界は思ったより優しかった。けれど、奴隷というものを初めて見た時には心が痛んで、取り乱したし、それを当たり前の事として見ている彼女が少し怖く感じた。彼女の居た国では、人間の奴隷は認められていないものの、夢見という種族を奴隷にする事は認められていた。俺は夢見という存在を知らずに育ったので人と同じような姿をしている存在を人ならざるものとして扱える人が居るという事に恐怖したし、彼女も同じように恐怖しているものだと思い込んだ。けれど、現実は違った。
「お前は、人に似た姿をした夢見を、人と同じ存在として見るのか」
「当たり前じゃないっすか! なに言ってるんです?!」
「じゃあ、夢見を奴隷として扱う人を同じ人として見れるか?」
「う、それ、は、同じ人だと思いたくはないっすけど、見れます。人ですもん」
「なんで?」
「へ?」
「なんで、自分が理解できない事を、自分がおぞましく思う事を平気でやってのける連中を同じ人だと思う? 自分と同じ姿をしているから?」
「え、と。それは、その人だって、笑ったり、泣いたり、怒ったり、悲しんだりする心があるはずですから。きっと、何かのきっかけさえあれば分かり合えます。夢見を奴隷にするのは酷い事だって……」
「自分と同じ感情を持ってるから、人なのか」
「えっ、はい」
 そして、そうか、と黙ったきり彼女は何も言わなかった。俺は、その時なんて彼女は酷い人間なんだと思ったし、少しだけ彼女を嫌いになった。彼女も夢見を差別してるのかな、とかそんな事を思った。夢見だってきっと人と同じように笑ったり、泣いたり、怒ったり、悲しんだりするという事を知ればきっと奴隷なんて無くなると俺は浅はかにも思い込んだ。実際は、そんなに簡単な事じゃなかったのだけど。夢見は、人とは決定的に違う生き物である事や、多くの人間が夢見として奴隷にされていた事を知ったのはその会話をしてからずっとずっと後の事だ。分かってなかったのは俺だった。今思えば、黙りきってしまった彼女の横顔には憂いが沈んでなかったか。悲しみや、怒りを押さえ込んだ表情を、していなかったか。いや、していたはずだ。俺は、今でもあの無知な発言をした事を悔やんでいる。今でも、夢見を奴隷にする事には反対だ。けれど、それと彼女に浅はかな発言をしてしまった事は別の問題なのだ。彼女を酷い人間だと思ってしまった事とも。彼女だって、夢見を奴隷とする事を良しとしていたはずが無い事を今なら良く理解できる。ただ、そんな簡単な話ではないのだ。結局、彼女との旅の中で俺が人の醜さというものに触れたのは、その会話をした中部へと向かう最後の街での事だけだった。
 中部にたどり着き、俺たちは首都へと向かった。それが彼女の優しさであった事に気づいたのも、恥ずかしい事に最近の話だ。いくら、中部が人の集まる地であるとはいえ、たった一年、それも俺を守りながら旅をしてくれた人の傭兵をやっていただけの俺が次の仕事を探すには首都以外では難しかっただろうから。それに俺は気づく事なく、彼女も気づかせる事なく彼女の知り合いがやっている酒場で俺たちは分かれた。一度故郷に戻ったら、次は北部へ旅立つと言う彼女はじゃあな、と言ってなんの感慨も無さげに旅立っていったから、俺は妙に寂しく感じたものだ。
「アレも随分お前さんを気に入ってたんだなあ」
 悄気返る俺に酒場の主人が笑いながらそう言っていたが、本当にそうだっただろうか。俺は、彼女の語るあの魅力的な旅の物語の一端になれただろうか。今でも、そればかりは自信が持てない。けれど、そうだったら良いな、と思う。
 彼女と別れて、細々と傭兵の仕事をしながら俺は中部を点々とした。その仕事の中には奴隷の搬送の護衛の仕事なんかもあった。もちろん、最初はそういう仕事は断っていた。純粋に食べ物を扱う商人の護衛や、学会へ向かう学者の護衛をした。けれど、それでは立ち行かなくなっていき、とうとう奴隷の搬送の護衛の仕事にも手を出した。初めて奴隷の搬送の護衛の仕事を終えたとき、悔しくて泣いた。
 あぁそうだ。初めて山賊にあったときも、辛かった。人を襲う事で富を得る事に快感を覚えてる人もいた。どうしても食べていく事が出来なくて追いつめられて人を襲う人もいた。親が山賊でそれ以外の生き方を知らない人も居た。大きな街でスラムを見た。盗みを働く事で生きる子供たちが居た。歓楽街を見た。薬付けになって男に媚を売る娼婦が居た。男娼も居た。それらの人を見下した目で見る俺の雇い主を見た。初めて、彼女の警告の意味が分かった。彼女が、なるべく俺をこういった人から遠ざけて旅をしていたことも。
 故郷の、お人好しばかりの村を今だからこそとても懐かしく思う。帰ろうと思えば帰れるだろう。多分、いつかは帰るだろう。けれど、俺はもう少しだけ故郷を離れて頑張ってみようと思う。もう一度、鮮やかな緋色の髪と瞳を持った彼女と出会うまで頑張ってみようと思う。そしたら、今度は俺の話を聞いてもらおう。彼女の警告の意味を理解させられながらも、俺が出会った優しい人たちの話を聞いてもらおう。美しい景色や、珍しい物、おいしい食べ物の話をしよう。
 そして、俺が出会った二人の夢見の話も。