夢見の研究所と研究者と旅人
「ほら、トモ。ここが僕たちの研究所」
そう言ってピピが足を止めたのは、なんて事は無い小ぢんまりとした一軒家だった。ドアのところに申し訳程度にぶら下がっている文字だけの看板が、ここが研究施設である事を伝えていた。とは言え、オレは中部で使われている共用語しか読めないから何と書かれているのか正確には分からない。まあ、差し詰め夢見研究所とかそんなもんだろう。そうやって看板の、オレにとっては意味をなさない模様をじっと見つめていたからだろうか。ピピが少し照れくさそうに、夢見研究所って書いてあるんだよ、とオレの予想から寸分違わぬ答えをくれた。けれど、その照れが知り合ってすぐの旅人に自分のテリトリーを紹介する事に対する気持ちの高揚から来るのか、それとも、研究所というわりにはあまりに小さい一般家庭のそれと変わらぬ建物である事への気恥ずかしさから来るのかはオレには分からない。
「研究所って言っても予算もそんなにないからね……ちょっと狭いかもしれない……」
そんな風に苦笑いを向けてきたピピは懐から鍵の束を取り出した。そして、簡素な作りの鍵穴へと迷うことなく鍵のたばのうちの一本を差し込み、手早くドアを開ける。仮にも国立の研究所の入り口がこんなに簡素な作りで良いのかと疑問に思ったが、その疑問は建物の中へ入った瞬間に解消された。ドアを開けて建物の中へ一歩進むと、右手に二階へ続く階段と地下へ続く階段があり、目の前には重々しい鉄製の扉が一つだけあった。木の肌が基調となった内装に不似合いなその重厚な扉はこの国へ来てもう何度も見た。何故なら、この国の研究施設には必ず同じデザインの扉が取り付けられているからだ。この鉄製の扉についている鍵はこの国の最高レベルの精巧さを持ち、それが最大で五つ施錠できるというのだからこの国がいかに研究熱心であるかが伺える。まあ、その熱意に見合った研究をしているかどうかは、夢見に限って言えばオレは首を一生懸命横に振らざるを得ないのだが。
研究所の中の空気は埃っぽく、あまり掃除に手が行き届いてないようにも思える。しかし、研究所という割には廊下や階段には物が無く余計にがらんどうな様が強調されている。もしかしたら、玲先生とやらは神経質なところがあるのかもしれない。今まで観て来た研究施設は必ずと言っていいほど、廊下や階段に物が散乱していた。
「えっと、最初に先生に紹介するね。こっちだよ」
意外にも、鉄製の扉をスルーしてピピは階段を登って行く。てっきり、玲先生とやらは鉄製の扉の向こうで研究に励んでいると思っていたのだが。
手すりに施された、まるで植物を模したかのような曲線的な装飾が何とも北部らしい。中部は、当然場所にもよるが、北部と南部の文化が混ざり合ってしまっていて、文化や歴史背景に裏付けされた物の作りはあまりされない。南部には南部らしい様式があり、それはそれでまた良いのだが、オレはどちらかと言えば北部の落ち着いた意匠が好きだったりする。
二階に上がると、そこには小さな部屋がひとつだけあった。やはり、散乱しているとまではいかないものの、書物や資料らしきものが所狭しと置かれている。まるで物置のようなその狭い部屋の奥にはベッドが一つ置かれており、そこには人が一人寝ていた。
「玲先生、玲先生起きてよ。紹介したい人がいるんだ」
ピピがベッドの傍に行き、寝ているであろうその人を遠慮もなしに揺さぶった。低い呻き声と共にゆっくりと上体が起こされる。青い髪をした寝ぼけ眼のその人が、どうやら玲先生らしい。
「どうしたんだピピ……もう少し寝かせてくれないか」
「えっと、そうしてあげたいんだけどね、その前に玲先生に紹介したい人がいるんだ」
ピピのその言葉に彼はぼんやりとした顔をこちらに向けてきた。まだ覚醒しきっていないぼんやりとした赤い瞳がオレをとらえたまま、しばらく静止する。赤い瞳を持った人間は、貴重というほどではないがそこそこ珍しい。人間、何かしらの共通点があると妙に親近感が沸くものだ。研究所の良く整理された空間もあって、オレはすでに彼を気に入りつつあった。
青い髪に赤い瞳を持ったこの研究者は話に聞き、想像していたよりもずっと若く感じられた。ピピの説明から三十代を超えるか否かくらいを想像していたのだが、彼はオレと同年代のようだ。とはいえ、やはり研究者というだけあって、そのたたずまいは寝起きとあっても知性的だ。少なくとも、オレの寝起きよりはそうに違いない。
彼は、オレを眺めながらしばらく瞬きを繰り返すとようやく頭が働き出したのか、ピピに説明を求め始めた。
「えっとね、この人は旅人さんでね……」
「そうじゃなくて、なんでここに連れてきたんだということを訊いているんだ。仮にもここは国家施設の研究所なんだぞ?」
「えぇ……こんなしょぼいのに、そんなの気にしなくても良いと思うんだけどなあ」
「お前は……!」
「ええっとですねえ……」
どうやらお説教モードに突入してしまいそうだったので、申し訳ないとは思いながら遮らせてもらうことにした。
「ピピ……くんとは街中のカフェで出会いまして、話を聞けば夢見の研究をしてらっしゃるとか。オレは各地を転々と自由気ままに旅をして回ってるんですけど、夢見にちょっと興味がありましてね。この国に入ってからもいくつかの研究所を見学させていただいてるんですよ」
「はあ……」
「そこで、ピピくんにオレが頼んであなたに紹介してもらうことにしたんです。どうか彼をあまり責めないでやってください。研究のお邪魔になるようでしたら、オレもすぐにここを立ち去りますから」
ピピが驚いた顔をしてこっちを見てくるが、これはきちんとしたオレの本音だ。当然、研究内容を見てみたい気持ちはあるが、それを公開する事を良しとしないのならばオレはまた次の街へ行くだけの話だ。そして彼は、がしがしと頭を掻いてから軽く身だしなみを整えると、改めてこちらへ向かってきた。
「いや、寝起きでみっともない姿で申し訳ない。昨日は学会があって、帰ってくるのが遅かったもので……とにかく。そういう事情であれば、えぇ、構いませんよ」
そうして、スッと差し出された彼の手をオレは軽く握った。
「ありがとうございます。オレはトモ。ファミリーネームはありません。中部の小さな農村の生まれです」
「ピピから既に聞いているかもしれませんが、私は玲。玲・グラスィエです。小さな研究所ではありますが、あなたの知的好奇心が満たされれば幸いです」
思いの外立派な名前に、オレは微笑む。立派な名前で簡素な暮らしをしてる奴は大抵信用できる。これはオレの経験則だけど、外れた試しが無い。
握手を交わし、友好的な会話にも思えるが、グラスィエは友好的な笑顔とは裏腹に冷たい瞳でオレの事をきちんと値踏みしていた。恐らく、オレも似たような目をしているに違いない。全く、大人とは嫌な生き物だと改めて思う。ピピの、表情と全く同じ色をした瞳が妙にまぶしく思える。ちらりと、その純粋な瞳の持ち主の表情を見やればオレたちの好意的なやり取りにほっとしたような表情を浮かべている。グラスィエも、同じようにピピの様子を探っていたらしく、オレたちは同時に顔を見合わせた。
「くっ、ふ、はは……あーあもう大人って言うのは嫌になりますねえグラスィエさん」
その滑稽さに、オレは思わず吹き出した。信用できない、あまり快く思っていない相手にも笑顔を浮かべて握手を交わし、子供にその腹の裏を気づかれてはいないかとハラハラする様は実に滑稽だと思う。世間を渡り、大人になるという事はどうしたって、そうした狡さや滑稽さを身に付け迎合するということを含むことをオレは今やっと思い出した。ここ数年、旅先で出会った印象的な人達が、そんな純粋な子供のまま育ったような奴だとか、大人になりきれずにどこか爪が甘い癖に大人ぶろうと必死な餓鬼だったりしたせいで、すっかり忘れていた。オレは無意識のうちにそんな滑稽なやり取りを多くの人と交わして来たのだろう。それは、仕方の無い事なのだけれども、ピピの純粋な瞳の前でも同じように腹に一物抱えたまま、ピピの大事な人と交流を持つのはどうにも、自分があまりに滑稽に思えて仕方なくなる。
「いや、まったく」
グラスィエも、先ほどの友好的なものではなく、自然な柔らかい、けれど少し困ったような微笑みを浮かべながら頷いた。
「改めて、よろしくお願いします。グラスィエさん」
「あぁ、改めて歓迎するよ」
改めて、をお互い強調しながら、今度こそしっかり握手を交わしたオレたちを、純粋な目をした子供が今度は不思議そうに首を傾げていた。
そう言ってピピが足を止めたのは、なんて事は無い小ぢんまりとした一軒家だった。ドアのところに申し訳程度にぶら下がっている文字だけの看板が、ここが研究施設である事を伝えていた。とは言え、オレは中部で使われている共用語しか読めないから何と書かれているのか正確には分からない。まあ、差し詰め夢見研究所とかそんなもんだろう。そうやって看板の、オレにとっては意味をなさない模様をじっと見つめていたからだろうか。ピピが少し照れくさそうに、夢見研究所って書いてあるんだよ、とオレの予想から寸分違わぬ答えをくれた。けれど、その照れが知り合ってすぐの旅人に自分のテリトリーを紹介する事に対する気持ちの高揚から来るのか、それとも、研究所というわりにはあまりに小さい一般家庭のそれと変わらぬ建物である事への気恥ずかしさから来るのかはオレには分からない。
「研究所って言っても予算もそんなにないからね……ちょっと狭いかもしれない……」
そんな風に苦笑いを向けてきたピピは懐から鍵の束を取り出した。そして、簡素な作りの鍵穴へと迷うことなく鍵のたばのうちの一本を差し込み、手早くドアを開ける。仮にも国立の研究所の入り口がこんなに簡素な作りで良いのかと疑問に思ったが、その疑問は建物の中へ入った瞬間に解消された。ドアを開けて建物の中へ一歩進むと、右手に二階へ続く階段と地下へ続く階段があり、目の前には重々しい鉄製の扉が一つだけあった。木の肌が基調となった内装に不似合いなその重厚な扉はこの国へ来てもう何度も見た。何故なら、この国の研究施設には必ず同じデザインの扉が取り付けられているからだ。この鉄製の扉についている鍵はこの国の最高レベルの精巧さを持ち、それが最大で五つ施錠できるというのだからこの国がいかに研究熱心であるかが伺える。まあ、その熱意に見合った研究をしているかどうかは、夢見に限って言えばオレは首を一生懸命横に振らざるを得ないのだが。
研究所の中の空気は埃っぽく、あまり掃除に手が行き届いてないようにも思える。しかし、研究所という割には廊下や階段には物が無く余計にがらんどうな様が強調されている。もしかしたら、玲先生とやらは神経質なところがあるのかもしれない。今まで観て来た研究施設は必ずと言っていいほど、廊下や階段に物が散乱していた。
「えっと、最初に先生に紹介するね。こっちだよ」
意外にも、鉄製の扉をスルーしてピピは階段を登って行く。てっきり、玲先生とやらは鉄製の扉の向こうで研究に励んでいると思っていたのだが。
手すりに施された、まるで植物を模したかのような曲線的な装飾が何とも北部らしい。中部は、当然場所にもよるが、北部と南部の文化が混ざり合ってしまっていて、文化や歴史背景に裏付けされた物の作りはあまりされない。南部には南部らしい様式があり、それはそれでまた良いのだが、オレはどちらかと言えば北部の落ち着いた意匠が好きだったりする。
二階に上がると、そこには小さな部屋がひとつだけあった。やはり、散乱しているとまではいかないものの、書物や資料らしきものが所狭しと置かれている。まるで物置のようなその狭い部屋の奥にはベッドが一つ置かれており、そこには人が一人寝ていた。
「玲先生、玲先生起きてよ。紹介したい人がいるんだ」
ピピがベッドの傍に行き、寝ているであろうその人を遠慮もなしに揺さぶった。低い呻き声と共にゆっくりと上体が起こされる。青い髪をした寝ぼけ眼のその人が、どうやら玲先生らしい。
「どうしたんだピピ……もう少し寝かせてくれないか」
「えっと、そうしてあげたいんだけどね、その前に玲先生に紹介したい人がいるんだ」
ピピのその言葉に彼はぼんやりとした顔をこちらに向けてきた。まだ覚醒しきっていないぼんやりとした赤い瞳がオレをとらえたまま、しばらく静止する。赤い瞳を持った人間は、貴重というほどではないがそこそこ珍しい。人間、何かしらの共通点があると妙に親近感が沸くものだ。研究所の良く整理された空間もあって、オレはすでに彼を気に入りつつあった。
青い髪に赤い瞳を持ったこの研究者は話に聞き、想像していたよりもずっと若く感じられた。ピピの説明から三十代を超えるか否かくらいを想像していたのだが、彼はオレと同年代のようだ。とはいえ、やはり研究者というだけあって、そのたたずまいは寝起きとあっても知性的だ。少なくとも、オレの寝起きよりはそうに違いない。
彼は、オレを眺めながらしばらく瞬きを繰り返すとようやく頭が働き出したのか、ピピに説明を求め始めた。
「えっとね、この人は旅人さんでね……」
「そうじゃなくて、なんでここに連れてきたんだということを訊いているんだ。仮にもここは国家施設の研究所なんだぞ?」
「えぇ……こんなしょぼいのに、そんなの気にしなくても良いと思うんだけどなあ」
「お前は……!」
「ええっとですねえ……」
どうやらお説教モードに突入してしまいそうだったので、申し訳ないとは思いながら遮らせてもらうことにした。
「ピピ……くんとは街中のカフェで出会いまして、話を聞けば夢見の研究をしてらっしゃるとか。オレは各地を転々と自由気ままに旅をして回ってるんですけど、夢見にちょっと興味がありましてね。この国に入ってからもいくつかの研究所を見学させていただいてるんですよ」
「はあ……」
「そこで、ピピくんにオレが頼んであなたに紹介してもらうことにしたんです。どうか彼をあまり責めないでやってください。研究のお邪魔になるようでしたら、オレもすぐにここを立ち去りますから」
ピピが驚いた顔をしてこっちを見てくるが、これはきちんとしたオレの本音だ。当然、研究内容を見てみたい気持ちはあるが、それを公開する事を良しとしないのならばオレはまた次の街へ行くだけの話だ。そして彼は、がしがしと頭を掻いてから軽く身だしなみを整えると、改めてこちらへ向かってきた。
「いや、寝起きでみっともない姿で申し訳ない。昨日は学会があって、帰ってくるのが遅かったもので……とにかく。そういう事情であれば、えぇ、構いませんよ」
そうして、スッと差し出された彼の手をオレは軽く握った。
「ありがとうございます。オレはトモ。ファミリーネームはありません。中部の小さな農村の生まれです」
「ピピから既に聞いているかもしれませんが、私は玲。玲・グラスィエです。小さな研究所ではありますが、あなたの知的好奇心が満たされれば幸いです」
思いの外立派な名前に、オレは微笑む。立派な名前で簡素な暮らしをしてる奴は大抵信用できる。これはオレの経験則だけど、外れた試しが無い。
握手を交わし、友好的な会話にも思えるが、グラスィエは友好的な笑顔とは裏腹に冷たい瞳でオレの事をきちんと値踏みしていた。恐らく、オレも似たような目をしているに違いない。全く、大人とは嫌な生き物だと改めて思う。ピピの、表情と全く同じ色をした瞳が妙にまぶしく思える。ちらりと、その純粋な瞳の持ち主の表情を見やればオレたちの好意的なやり取りにほっとしたような表情を浮かべている。グラスィエも、同じようにピピの様子を探っていたらしく、オレたちは同時に顔を見合わせた。
「くっ、ふ、はは……あーあもう大人って言うのは嫌になりますねえグラスィエさん」
その滑稽さに、オレは思わず吹き出した。信用できない、あまり快く思っていない相手にも笑顔を浮かべて握手を交わし、子供にその腹の裏を気づかれてはいないかとハラハラする様は実に滑稽だと思う。世間を渡り、大人になるという事はどうしたって、そうした狡さや滑稽さを身に付け迎合するということを含むことをオレは今やっと思い出した。ここ数年、旅先で出会った印象的な人達が、そんな純粋な子供のまま育ったような奴だとか、大人になりきれずにどこか爪が甘い癖に大人ぶろうと必死な餓鬼だったりしたせいで、すっかり忘れていた。オレは無意識のうちにそんな滑稽なやり取りを多くの人と交わして来たのだろう。それは、仕方の無い事なのだけれども、ピピの純粋な瞳の前でも同じように腹に一物抱えたまま、ピピの大事な人と交流を持つのはどうにも、自分があまりに滑稽に思えて仕方なくなる。
「いや、まったく」
グラスィエも、先ほどの友好的なものではなく、自然な柔らかい、けれど少し困ったような微笑みを浮かべながら頷いた。
「改めて、よろしくお願いします。グラスィエさん」
「あぁ、改めて歓迎するよ」
改めて、をお互い強調しながら、今度こそしっかり握手を交わしたオレたちを、純粋な目をした子供が今度は不思議そうに首を傾げていた。