港町と傭兵と支配者と旅人

 旅の途中で正樹を拾ってから一年が経とうかという頃、オレたちは南部の西側を北上して、中部にほど近い港町へたどり着いた。中部と南部は陸続きになっている為、徒歩で中部へ向かっても良かったのだが、中部と南部の西側の境界には大きな山脈があり、徒歩で中部へ向かうよりは船で向かった方が安上がりで簡単だったりする。たとえ、その港町が南部でも特に治安が悪いことで有名な街だろうと。
 正樹を拾ってからというもの、オレはなるべく治安が良い街を選んで旅をして来た。治安が良い街を選ぶのは簡単だ。その街と交流の深い街を次の目的地にすれば良い。正樹の故郷のように多少例外はあるものの、この方法で治安が悪い場所へ行く事はまず無い。平和でのんびりとした村で育った純朴な青年に人の醜悪な部分を見せたくないと思ってしまうのは、ただのオレのエゴだという事は分かっている。この頃オレは中部の首都に着いたならオレは正樹と別れようと考えていた。首都には顔なじみの酒場の主人が居るし、仕事にもさほど困る事は無いだろう。それに、世界を見たいと故郷を出た正樹をいつまでもオレが守っているのは違うような気がするのだ。オレが選んだ世界を見せても仕方が無い。正樹が、正樹自身でありのままの世界を見なければ、彼が故郷を出た意味が無い。この街から中部へ向かうのはその為の第一歩と言うか、練習と言うか、まあ、オレが最後に見せる世界の在り方のうちの一つだと自分に言い聞かせた。本音を言えば、正樹に人の醜悪な部分を見せたくないが為に徒歩で中部に向かいたかった。けれど、山越えを考えれば、それは諦めざるを得ない。東側へ行けば楽に陸続きで中部へ行けるけど、あっちはあっちで駄目だ。治安が悪い。こっちとはまた違ったたちの悪さがある。というよりも、中部との境から南にかけて砂漠が広がってるので、東側へ向かおうと思ったら一度南下してぐるりと回り道をしなければならないのだ。これは、オレが東側から南下する形でぐるりと南部を旅する事になった最大の理由である。旅立った当初は、連れができるということを考えていなかったから、当然のようにこの港町から自己責任で船に乗れば良いだろうと考えていたのだ。
 そんなこんなで、昼過ぎに港町へ足を踏み入れたが、まあ腐臭が酷い。夏場という季節もあるのだろうけれど、恐らく碌に風呂にも入れてもらえてないのであろう奴隷たちの匂いだろう。やっぱり、今からでも山越えをしようかなんて考えが一瞬頭をよぎったけれど、現実的に考えて、無理だ。正樹は大丈夫だろう。頑丈さと元気だけが取り柄のようなやつだ。正樹じゃなくて、オレが無理だ。いやまあ、これでも農村の生まれだ。無理じゃあ無いだろうが、そんな事したくねえ。
「うえっ、なんっすかこの臭い……なんで平気な顔してんすか姉御」
「姉御じゃねーし、明日にゃ慣れるよ」
 正樹が袖で鼻と口を覆いながら顔をしかめている。吐き気がこみ上げているのだろう。浅い息を繰り返し、時々新鮮な空気を求めて深く息を吸っては逆に臭いを吸い込んでは吐きそうになるのを堪えている。
「一回吐いちまえば?」
「町中で、そういうわけには」
「じゃあ、海まで我慢するんだな」
 スタスタと、南部には珍しい石造りの町並みを歩く。木造建築が主な南部にあってこの街が石造りなのは、中部にほど近いこの街ならではだ。所々に木造の家が見えるが、恐らく貧乏な人々の家だろう。染められた布の買えない人々の、質素な麻の服が腐敗臭の酷い風に晒されている。街の奥へ奥へと進んでいくと、木造の家々は姿を消して、街は中部の、それも人の多い街の意匠にほど近い町並みへと変わっていた。ここまで来れば、腐臭よりも潮の独特の臭いが勝る。海から遠い内陸で生まれ育ったオレにとっては潮の臭いも悪臭には変わりないのだが、小さな島の生まれの正樹にとっては違うらしい。
「うぅ……潮の匂いがする……はぁ、落ち着く……」
 嗅ぎ慣れない、不衛生な人の腐臭に精神的に参ってしまったのだろう正樹が、潮の匂いに気付いてほっと息をついたのが分かった。そのまま道なりに進めば、船着き場が見える。当然、海も。
「海だぁ! 海だ! 海っすよ姉御!」
「てめえは見慣れてるだろうに」
「だからっすよ! 海を見ると故郷を思い出します! はあ。やっぱり海は良いっすね。落ち着きます」
「そんなもんかねえ」
 人々の声に、波のさざめきが混ざり合って、港町独特の活気を作り出している。さすがに船着き場の近くは中部へ向かう旅人も多いのか、街の入り口よりは治安も良さそうだった。海だ海だとはしゃぐ正樹に、街に住んでいると思わしき人が生暖かい目を向けている。内陸出身の旅人がしばしば海を見てはしゃぐのだろう。オレも生まれて初めて海を見たときは、まあ、はしゃいだ。美しい曲線を描く水平線にキラキラと陽の光を反射する青い海、独特の潮の匂いと、波のさざめきは感動に値した。まぁ、正樹は生憎と海辺にある村の出身なのだけれども。
 今までの腐臭を体から追い出すかのように、正樹は深く息を吸っては吐く事を何度か繰り返した。そうして、正樹の気分がいくらか回復した事を見計らってから中部へ向かう船に乗る手続きをしにオレたちは斡旋所へ向かった。
「何だ姉ちゃん、タイミング悪かったなあ。今日の朝に丁度船が出たばかりだよ。次の船は早くて三日後だなあ」
「早くて三日、ね。いや予想より早い。二週間くらいは覚悟してたしな」
 船の斡旋所に着くなり、筋肉隆々の親父が若干申し訳なさそうに船が今朝出航してしまった事を告げてきた。けれど、親父の申し訳なさそうな態度に反して、早くて三日後という言葉にオレは首を傾げた。二週間くらいの滞在は覚悟していたし、三日後であればそこまで長い時間待たされるというわけでもないはずだ。
 しかし、親父が申し訳なさそうにした真の理由は別のところにあった。
「いや、それが次の便は奴隷を運ぶ船でさあ……嫌がる旅人さんも多いんだよ」
「あー成る程。その次は?」
「それが、これから海洋生物が繁殖期に入るってんでその次が一ヶ月は後になっちまうんだ」
「一ヶ月ぅ?!」
 親父の無慈悲な言葉に流石に言葉を失った。一ヶ月は流石に長い。この街に滞在するにしても、この街の治安と正樹の平和ボケっぷりを考えると一ヶ月は無理がある。二週間程度であれば、警戒を怠る事無く案外過ごせる。だけど、二週間を過ぎた辺りで、慣れが出てしまう。正樹の経験を鑑みても、恐らくその二週間を過ぎた辺りが危ない。
「……三日後に出る輸送船のオーナーはどんな奴なんだ」
 奴隷を乗せた輸送船に乗るか、一ヶ月待つか、どちらもオレは嫌だ。嫌だが、仕方ない。オーナーの噂次第ならまだ奴隷船に乗った方が良いかもしれない。これは、オーナーにもよるんだが、奴隷とその他を分けて、旅人の安全を保障した上で運んでくれる奴隷商の奴も居れば、あわよくば旅人も奴隷にしてしまおうと手ぐすね引いているクズも居る。後者ならば一ヶ月ここに滞在してでもその船を見送るが、前者であればこの街にリスクを冒して滞在するよりはまだマシだろう。
「あぁ、相模さんだよ。この街を取り仕切ってる人さ。まだ若いんだけどねえ……まあ旅人を奴隷に出来るような人じゃないな今の当主は」
「へぇ……」
 後半部分は声を潜めて親父はオレにそう告げた。その言葉にこの親父も奴隷商の片棒を担いでいる人間だと言う事が伺えるが、どうせこの街はそんな奴ばかりだろう。後半部分にその若い当主が甘ちゃんである事、この親父がそれをあまり快く思っていない事、けれど旅人をすら食い物にするような下衆であるよりかはマシだと思われている事が暗に含まれていたが、なるべく気付いていないフリをした。オレはあくまで一般人であって、雇っている傭兵も半人前と言えるかどうかさえ怪しい、腕っ節だけが強いヘタレだ。変に隙を見せないようにするよりは、少し隙を見せた方が警戒されずに済む。変な事に勘づいて厄介ごとに巻き揉まれてしまうのは、オレの悪い癖というか、なんというか。
 幸い親父はオレを勘ぐるような視線を向ける事無く、オレにどうするのかを訊ねた。
 斡旋所を出ると、外でオレを待っていたはずの正樹が居なかった。辺りをぐるりと見渡しても、黒髪の馬鹿でかい図体をした人影は見えない。マズい事をした。正樹は子供じゃないが、知らないやつに声かけられても、何があってもここで待ってろと再三にわたって言い聞かせたはずなのにも関わらずここに居ないという事は雇い主の言う事を無視して一人でふらっと散歩にでも行ったのか、何かの事件に巻き込まれたのか。前者であればまだ良い。お前はアホなのかとオレが頭を抱えて正樹に傭兵としてそれはやってはいけないと教えれば良いだけだ。問題なのは後者だ。ここで何か事件に巻き込まれただとか、うっかり奴隷商に連れ去られただとかだったなら、オレには残念ながらどうする事も出来ない。あのアホを守ろうとした結果がこれだ。駄駄を捏ねる正樹をぶん殴ってでも斡旋所まで連れて行くべきだった。自分が情けなくなってくるが、嘆くのは後だ。とりあえず正樹を探さなければ。
「あの、すみません。ここに居た黒髪の図体のでかい青年を知りませんか」
 その辺にいた人たちに手当たり次第に正樹の足取りを訊ねてみる。何人かは首を横に振ったが、一人がそれらしき青年を見たと教えてくれた。
「あぁ、多分そいつなら、長い黒髪の女と街の方へ行ったぜ」
「黒髪の女ぁ?! どんな女だ! 顔は見えたか?」
「あ? あぁ、すまない顔は良く見えなかったんだが……そうだ、左口元のほくろが妙にセクシーな女だった」
「左の口元にほくろ、ね。いや十分だ恩に着る。これで酒でも飲んでくれ」
 情報を教えてくれた男に何枚かの硬貨を握らせて、オレは男が指した方へと向かう。ただの人助けだったら良いのだけれど、この街でならハニートラップという可能性もある。最悪身ぐるみはがされてても良いから正樹が五体満足で居ますようにと祈りながら、明らかに薄暗い裏道へと入った。辺りはもう夕暮れで、赤く染まった街が妙に不気味だった。
 裏道に入ってしばらくすると、人影が見えたので正樹を見なかったか訊ねようと思い、その人物へ近づいた。
「おい、そこのアンタ」
 声をかけると、そいつはこちらを振り返った。まだ完全に陽が沈みきっていない中、ぼんやりと薄暗い路地裏に不釣り合いな青年とも少年とも言えない微妙な年頃の男だった。綺麗に切りそろえられた黒い短髪は夕陽を浴びて赤みがかって不気味だったし、どこか人を見下したような黒の目をこちらに向けている所為か、そこまで背が高くないはずのこの男には威圧感があった。そして、ほくろがある左の口元をくっと引き上げてその男は笑った。
「こんな時間に、こんなところで女性が一人だなんて不用心にもほどがあるんじゃねえの?」
「……ご丁寧にお気遣いをどうも。そっちこそ、そんな身綺麗なカッコしちゃってこんな場所には不釣り合いだと思うけど?」
「はっ、馬鹿言うんじゃねえよ。ここは俺の街だ。釣り合うも釣りあわねぇも無い。で、そっちは何か俺に用があるんだろ?」
 ニヤニヤと笑いながら、その男は余裕たっぷりにオレへと詰め寄る。思わず一歩引き下がると同時に、数人に囲まれている事に気付いた。見張られている時独特の空気の固さに冷や汗が背中を伝うのを感じる。どこに何人居るかまでは流石に分からないが、何人かに囲まれているということは理解できた。
「黒い短髪に黒い瞳の、図体がでかい男を見なかったか。オレの連れなんだ。港の方で女とこっちの方へ来たって聞いたんだけど」
「知らねえな」
「そうか。それはどうも」
 もう遅いかなぁと思いつつも、とっととこの場を離れようと踵を返そうとしたところで、ぐいっと腕を引っ張られた。抵抗しようにも、不意打ちを食らったも同然の状態だった事もありそのまま壁へと体ごと乱暴に押し付けられる。狭い裏道があだになった。
「まあ、ちょっと話を聞けって」
「女口説くにはちょっとばかしムードが足りねえし、エスコートもなってねえけど?」
「あぁ、成る程それもそうだな」
 楽しそうに笑いながら、成る程なんて言っていても腕を掴む力を弱める気配はないし、じろじろと値踏みするような視線が服の上から肌を這う。性的なようで、嫌にアッサリとした視線だ。好奇心を剥き出しにした子供が、無邪気に虫の解剖をしているときのような、純粋で厭らしいそんな視線。まあ、この場合解剖されてるのはオレな訳だけど。それでも、あぁ、子供みたいだと思った瞬間オレはなんだか力が抜けた。何だ、目の前にいるのはただの小綺麗な餓鬼じゃねえか。
 けれど、その安堵感は相手にも伝わっていたようで、急に子供の悪趣味な好奇心に満ちた視線から、殺気の籠った裏社会の人間のソレに変わる。一瞬背筋がぞくりと冷えて反射的に隠し持っていた刃物に手を伸ばしそうになったけれど、オレを囲っている奴らからも漏れ出た殺気に思いとどまる。
「へえ、賢いじゃねえか」
 愉悦に歪んだ顔でそう告げた男に、こいつはサディストに違いないと妙な確信を抱く。正樹をコイツのとこへやったら少しは根性叩き直されるだろうかなんて思考は明らかな現実逃避だ。この男には正樹よりも、従順で柔らかな雰囲気をしていて、だけど、強かな犬の方が似合う。いやこれも現実逃避だ現実を見ろ、オレ。自信のピンチともとれる状況に思考が追いつかない。オレの脳は無意味な空想を繰り返し、現実から必死で目をそらそうとするが、目をそらした瞬間オレは終わる。必死でなんとか隙をついて逃げようと頭を働かせるオレに、追い討ちをかけるかのように、さらに現実逃避したくなるような一言が投げかけられた。
「赤い髪と瞳も悪くねえ。一晩買ってやるよ」
「……は?」
 買ってやる、の意味が暫く分からなくて、次の言葉が出てこない。どういう意味だと問いかけようと息を吸った時には、もう奴の手はオレの腰に回されていた。ねっとりと、今度こそ性的な意図を持って手が服の上から肌を這う。もう問いかけるまでも無く買ってやる、の一言が売春を意味する言葉だと言われるよりも確実に理解した。
「どうせ宿も決まってねえんだろ? 一晩股開くだけで、安全で清潔な宿とそこそこ美味い飯を用意してやるっつってんだよ。悪い話じゃないだろ?」
 確かに悪い話じゃない、のか? 宿は探していたし、無料で安全と衛生を確保してくれると言うならばそれ以上に有り難い話は無い。だけど、一晩股開くって、難易度高くね? オレ一応処女だぞ? 初めてがソレって良いのか? 既にオレの脳みそは処理できる許容範囲をとっくに越えて半ば思考を放棄し始めていたので、とりとめの無い疑問ばかりが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返し、まともな言葉が出てこない。
「なんなら、お前の連れとか言うのも探してやるし、どうせ中部へ行きたいんだろ? 船も斡旋してやるよ。これだけの条件だ。一晩抱かれたってお釣りが来ると思うけどな」
 こんな馬鹿な話とスパッと断れれば良いのだが、残念な事に一理あるのだ。一晩見知らぬ男に抱かれるだけでこれだけの好条件を提示してもらえるのは確かに悪い話じゃない。悪い話じゃないが、それは金がない場合であって、生憎オレは金は多めに持っている。金さえあれば、安全と衛生と美味い飯は実は何とかなる。なんとかなることに、わざわざオレの処女をくれてやる必要があるだろうか、いや、どうだろう。
「あぁ俺が信用できねえとか? 安心しろ。ちゃんとそのくらいの約束は守ってやるよ。そんなクソ下らねえことで相模の名に泥をつけたりはしねえから」
「え、あ。お前が相模?」
 相模、と言う名に思わず疑問符付きの言葉を発してしまった。斡旋所の親父が言っていた相模がこいつなら、その約束はきちんと守られるだろう。そのくらいの約束を破るメリットがこいつには微塵も無い。
「なに、俺の事知ってんの? なら話は早ぇな」
 つ、とこいつの指がオレのうなじを辿る。いつの間にか腕の拘束は解けて、振り払おうと思えば振り払える状況にあった。けれど、夕暮れ時も終わり、空に星が輝き始めた暗い路地裏の、どこか性的な毒をはらんだ甘い空気に呑まれてオレは抵抗する事が出来ない。ワイシャツの中に手が潜り込んで腹から徐々に嫌にゆっくりと上へと向かって這ってゆく。顔が熱い。辛うじて声を上げることだけはしなかったが、息があがってるのが分かって妙に恥ずかしいやら情けないやら。子供だと思った相手はやはり裏社会の住民で、慣れた手つきに行きた世界の違いを思い知る。なんかもう良いかなと流されそうになった時、ふにっとした感触が唇に当たった。それが奴の唇だと理解するまでに数秒、さらに今キスをされているのだと理解するのにさらに数秒、あ、胸揉まれてるわと自覚するのにさらに数秒かかった。
「……想像以上に胸ねぇな」
「……サラシ巻くまでもないからな」
 ふにふにと揉まれてるのは何となく理解できるのだが、如何せん、相手の表情が胸? これは胸? と問いかけてくるのだからこちらも微妙な気持ちにならざるを得ない。もしも、オレがこの小さな胸にコンプレックスを抱いていて何かもっと別の、所謂女性らしい反応を返せたら状況は変わったかもしれない。しかし、女性としては我ながら残念だとは思うのだけど、胸が小さいことにコンプレックスを抱くこと無く生きてきてしまったため、色気も何も無い返答しかできなかった。いやそれで良かったのだけど。わりとほっとしてたりしたけれど。
 なんだか妙に緊張感が無くなって、オレの脳に正常な思考が戻ってくるのを感じた。それでも、まだ脳が完全に回復する前にちょっとこいつをからかってやろうと思って奴の口元のほくろにキスを贈った。
「悪ぃけど、安全と衛生と美味い飯を買う金は股開くまでもなくあるから、これで勘弁な」
 そう言って今度こそ踵を返して港へ一度戻ろうとすれば、笑い声と一緒に相模の声が飛んで来た。
「宿に泊まるなら、港から大通りに入って二ブロック目を右に行った所にしておけ!」
 根拠は無いが、多分そこは相模の息のかかった宿なのだろう。そこへ素直に行けば安全と衛生と美味い飯がそこそこの値段で買える確信があった。成る程、親父の証言は恐らく正しい。相模は甘い。裏社会を仕切る悪人にしては、致命的なくらい甘い。けれど旅人をすら食い物にするような下衆であるよりかは遥かにマシだ。その甘さが、子供の悪趣味な好奇心が、奴の魅力であり、奴が当主でいることができる理由だろう。
 相模の言う通り、港から大通りに入って二ブロック目を右に行った所で、所謂亀甲縛りを施された使えない傭兵が転がっていた。
「あっ、姉御! 良かった無事だったんすね!!」
「いやそれはこっちのセリフなんだけど」
 もぞもぞと芋虫のように体を蠢かせながらこちらへ向かってくる様は、正直気持ち悪い。
「正樹お前、こんなとこでオレの命令も聞かずに何してんだ」
「いや、話せば長くなるんすけどね? 長い黒髪のすっげぇ美人がなにやら具合が悪そうにしててですね? 姉御の言いつけを忘れたわけじゃないんですけど、つい、その、声をかけてしまいましてね?」
「ほう」
「そしたら、具合が悪くて立てないって言うから宿まで送ってあげようと思いまして……いや傭兵として失格なのは理解できてるんすけど、その、人として見捨てておけなくってですね……」
 傭兵としての自分よりも、人として困ってる人を見捨てておけなかったというのは、こいつの美徳なのは分かる。分かるのだけれど。
「オレさあ、再三てめえに言い聞かせたよな? この街は治安が悪ぃって」
「うっす」
「何があっても、何を言われても、斡旋所の目の前にいろっつったよな?」
「うっす」
「反省は」
「してます! けど! 後悔はしてません!!」
「頼むから後悔もしてくれないか」
 ため息をついて、頭痛がするような気がしつつも、とりあえず縄を切って正樹を自由にしてやる。正樹らしいと言えば、正樹らしい。どうせこいつの脳内じゃ気分が悪い女性がいなかったという安心感でいっぱいなのだろう。こっちはそのせいでファーストキスまで奪われたというのに。
「まったくてめえは、てめえの雇い主が貞操の危機だっつーのに女に鼻伸ばしてたとはな」
「え? は?! 姉御そんな目にあってたんすか?! え、あの、その……大丈夫だったんすか?」
「ファーストキスは奪われた」
「すんませんっしたああああああ!!!!!」
 流れるような正樹の土下座に思わず笑う。まあ、良い勉強になったと思おう。オレの損失としてはファーストキスだけなのだから安いものだ。ファーストキス一つでこの街を取り仕切る当代のオススメの宿に泊まれるのだから。
「ど、そうやって償えば良いっすか?! どうしよう?! 姉御の大切なファーストキスが?!」
「別に良いよそんなの。お互い良い勉強になったな」
「と、言いますと?」
 もう月が輝く夜の道ばたで頭を抱えながら半べそをかく、この図体だけがでかい男にオレは残酷な事実を一つ告げてやる。
「お前が声をかけた女は、左の口元にほくろがあって、妙に人を見下した目をしたオレと同じような体格の女じゃなかったか?」
「え? 何で知ってるんすか?」
 左の口元にほくろ、で何となく察してはいたが、多分正樹にハニートラップを仕掛けたのは相模本人だろう。奴が顔を近づけてきた時、微かに白粉の甘い香りがしたのは勘違いだと思っていたが、落としきれなかった白粉の残り香だと考えれば辻褄が合う。裏社会に生きる人特有の、鈍刀で斬りつけられたかのような激しい鈍い痛みを伴った殺気を放つくせに、妙に子供染みた好奇心を持ち合わせた男だったから、自らハニートラップを仕掛けに行く姿が想像できないわけではなかった。
「多分そいつな、男だ」
「は? え、何言って……? え、マジっすか? マジで? はあああああ?!」
 明らかにショックを受けている様子の正樹に、堪えきれずにオレは大笑いした。ああ可笑しい。お互い悪い奴に騙されたというのに、こんなに平和に笑っているだなんて。
 女性だと信じ込んでいた人物が実は男だったという事実を受け止めきれずにいる正樹を放って、オレは宿へ手続きに行く。案の定、相模の方から連絡が行っていたらしく、ご丁寧なことに、正樹の取り上げられた荷物も一緒にオレたちの部屋が用意されていた。本当に、甘い男だ。けれど、この街の本当の闇の部分を見ればまた奴への印象が変わるのだろう。明日は正樹を連れて奴隷市へ行くつもりだ。
 恐らく、悲惨な現実がそこにはあるだろう。それを見た時に、このお気楽で純粋な青年は何を思うのだろう。願わくば、世界に絶望しないでほしい。世界は、悲惨な現実を孕んでいるけれど、それだけではないのだから。
 だから、それまでの、短い間、せめてつかの間の安全と清潔な環境と美味い飯を堪能しよう。
 別れの時は近い。