港町と傭兵と奴隷と旅人

 眩しい陽の光が顔に当たって、朝が来たことを知る。正樹は既に起きて日課の筋トレをしていた。浅く繰り返される激しい息づかいに、ギッギッと規則正しいリズムで軋む床に今は何をしているのかと、上半身を起こしてぼうっとした視界で正樹を捉えたら、片腕で腕立て伏せをしていた。陽は高く、正樹は既に汗だくだったから、もう朝というよりは昼なのかもしれない。潮の匂いにもいい加減慣れて、今は冷たい潮風が心地よい。夜が明けてみて改めて思うのは、相模の腕の中で目覚める朝よりは、ここ一年のいつもの朝の方がやはり精神衛生的によろしいという事だったりする。
 待ても碌にできない駄犬の所為で色々と疲れた昨日を思い返してみて、改めて無事で良かったと胸を撫で下ろした。宿は、思った通り良心的な値段で、垢を流す施設があって、清潔で飯が美味かった。本当に、相模という男は裏社会を取り仕切る男と言うにはあまりに甘い。オレも正樹もこれじゃあ良い勉強になったとしか言えない。正樹はあのまま奴隷にされていてもおかしくなかったし、オレもあのまま犯されて足の健でも切られてどこかの歓楽街へ売り飛ばされてもおかしくなかった。
 そして、これからオレが正樹に見せようとしてるのはそんな目に遭ってしまった者たちだ。
 この国は、表向きは夢見以外の隷属を法律で禁止している。けれど、夢見なんて実際はそうそうお目にかかれるもんじゃないし、奴隷の八割は夢見と偽られた人間であるのが現実だ。誰も彼もそのことに気付いてはいるが、口には出さない。誰だって我が身は可愛いものだ。オレだってそうだ。
「なあ正樹。お前は、奴隷を知ってるか」
「奴隷……ってなんすか?」
 とりあえず、奴隷という存在自体を正樹が知っているかどうかが怪しかったので訊ねてみれば、思った通りの返答が返って来た。正樹はあんなお人好しばかりが住んでいる辺境の地の出身だ。知っている方がおかしい。
「奴隷ってのは、良く言って一番下の労働階級だ」
「あぁ、奴婢の事ですか?」
「ぬひ? いやお前の国の制度は良く分からねえんだけど……そうだな、馬や牛と同じように取引される」
「へっ? 労働力として雇い主同士の取引上で金銭のやり取りが発生するわけでなく?」
「あぁ。奴隷は、物だ。人間じゃない」
「ちょ……っと待って下さい、そんな、酷いことが? 同じ人同士で?」
「国によってはな。この国の奴隷は、人じゃない」
「え、でもさっき一番下の労働階級って」
「正樹、お前もしかして夢見も知らないのか」
 中部では、夢見の存在は常識だったから夢見を知らない人がいるという事を失念していた。奴隷の存在よりも、確かに夢見のことを知っている方がおかしいのかもしれない。けれど、何故だかオレは世界中の誰もが夢見のことは当たり前に知っている気がしていた。
「夢見ってのは、人の体の一部分に他の動物の特徴を持った生き物で」
「知性や感情は持ち合わせてるんすか?」
「一応な」
 当たり前のことを返したつもりだったが、オレの返答に正樹は愕然とした表情を浮かべた。何をそんなに驚いているのかそのときのオレには見当もつかなくて、そんなに夢見の存在を知らなかったことがショックだったのだろうかと内心首を傾げた。けれど、正樹が次に発した言葉にオレは頬を強く叩かれた思いがした。
「アンタは! 知性も感情も持ち合わせた、俺たちと見た目もほとんど変わらない存在が人じゃないって言うのか?!」
 あぁ、そうだよな。初めて夢見の存在を知った時、オレも同じようなことを考えていた。父と似ている大きな手。母と似ている優しい声。友達と似ている笑顔と、オレと似ている涙。少し見た目は違うかもしれないが、違いなんてほとんどない。人と同じ生き物だと思っていた。
「そうだ。夢見は人じゃない。決定的に違う生き物だ」
 それでも、これだけははっきりと今ならば言える。夢見は人とは違う生き物だ。どんなに姿が似通っていても、話が通じた気になっても、同じ涙を流していようと、心は通えない。心を通わそうとすればする程に、自分とは決定的に違う存在なのだという現実を突きつけられてしまう。そして、違う生き物として接することが正しいことだといずれ理解する。もちろんオレはそれが夢見を奴隷として扱うことだとは思っていない。けれど、夢見は人ではないから差別を失くすことは不可能に近いくらい難しいと思っている。
「正樹、オレは夢見も人も奴隷として、物として扱われていいとは思っていない。奴隷制度は撤廃されるべきだと思っているし、夢見と人は対等であるべきだとも思っている。けどな、人と夢見は違う生き物だ。それは、勘違いしちゃいけないと思う」
 眉を寄せて、苦虫を噛み潰したかのような顔で正樹は黙る。正樹の長所の一つは人の話をきちんと聞く所だ。どんなにそれを不条理だと思っても、間違っていると感じても、最後までこいつは人の話を聞き、その話に自分ができうる限り寄り添うことができる。
「なあ、正樹。対等であることは、どういうことだと思う?」
 ぽつりとこぼれた疑問は、オレがずっとずっと抱えている疑問だ。文化も、価値観も何もかも違う存在と対等になるということはどういうことなのだろう。彼らにとって価値があることは運命の相手を夢に見てその相手と一生を過ごすことだけだというのに。人の価値観で対等に扱った所で、彼らにとってそれは何の価値も無いというのに。
 正樹は答えない。質問の意味も意図も分からないのだろう。今までの話を受け止めるだけで精一杯に違いない。では、オレと正樹は対等だろうか。オレは正樹と対等でありたいと思っている。傭兵とその雇い主という関係上それは厳密には無理な話かもしれないが、人として対等でありたい。友人でありたいと思う。けれど、それはどこかで正樹をオレの価値観、オレの道理に合わせてほしいという願望があるのではないか。
「トモさん。俺、アンタが今、何をしたいのかが分かりません」
 出会った時以来、久々に呼ばれたオレの名前はどこか冷たい響きを持って正樹の口から発せられた。何がしたいのか。何がしたいのだろう。
「俺にどうして欲しいんですか」
 真っ直ぐな瞳を持った青年が、その愚直さでもってオレを見る。
「世界に絶望しないでほしい」
 口に出してみれば、大げさで安っぽくで自己中心的で押し付けがましい響きをオレの願いは孕んでいた。
「世界は、不条理を孕んでいる。貧困に喘ぐ人もいる。人として扱われない人がいる。正直者が馬鹿を見ることだって多い。具合の悪い女性を助けようとしたら亀甲縛りで道ばたに転がされることだってある」
 オレはそんな風景を仕方ないと流してきたように思う。仕方ない。仕方の無いことなのだ。それを正樹に学んでもらいたいと思いながらも、本心は全く別のことを望んでいる。
「人として扱われない人がいる世の中を、人でない存在と分かり合えない現実を、正直者が馬鹿を見る事実を、お前に仕方が無いと諦めてほしくない」
 出会った頃の愚直さのまま、その素直な心のままでいてほしいと願うのはあまりに自分勝手な気がしたけれど、そう願わずにはいられなかった。正樹が正樹のまま、その愚直さで世間を渡るのであれば、人よりも多く傷つき、涙を流し、危ない目に遭い、損をするだろう。けれど、正樹のような愚直な人間が一人でもこの世界に生きていると思えたならば、オレは、オレがこの世界を今よりも少し好きになれる気がしたのだ。これはオレのエゴだ。
「けれど、オレはお前に傷ついてほしくもない。世界の不条理を仕方が無いと諦めて、見て見ぬ振りをして通り過ぎれば、旅はずっと簡単になる。今までお前を連れてしてきたのは、そういう旅だ」
 潮風が部屋を吹き抜けていく。波のさざめきと港特有の活気が遠くから聞こえてくる。今から身支度をして、昼食をとったなら丁度頃合いだろうか。
「中部に着いたらまずは首都を目指す。首都に着いたらオレはお前と別れようと思う」
「えっ、ちょ、ちょっと待って下さいどうしたんですかいきなり。そんなに昨日のこと怒ってるんですか?!」
「違ぇよ。これはずっと考えていたことだ。正樹、本当に世界というものを見てみたいならそろそろ一人で歩くべきだとオレは思う。そうじゃないなら、お前はここで故郷に引き返した方が良い」
 唖然とした表情を晒しながら、それでも瞳は先ほどと変わること無く真っ直ぐなままだ。
「俺は……俺は、まだ旅を続けたいです」
「そうか、だったら旅を続けてたらいずれ目の当たりにする現実を見せてやるよ」
 ベッドから降りて、伸びをしてから寝間着代わりのシャツを脱いで代わりのワイシャツを羽織る。正樹が何か言っているが全て無視した。いきなり過ぎる今日の展開と、仮にも異性の前で堂々と着替えをすることへの文句ばかりだからだ。今日のことはともかく、着替えについては今更だろうに。
 複雑な感情を押し殺しながらも、正樹は大人しく汗を拭いてからいつも通りオレに付き従った。いつもだったら、美味い美味いとアホみたいな笑顔をまき散らしながらとる食事にも会話は無い。宿を出て、街の入り口の方へ、腐臭の酷い方へと向かう。
「姉御、昨日から気になってたんすけど、もしかして、この腐臭って」
「おそらく碌に垢も落としてもらえない奴隷たちの体臭だろうな」
「そんな……」
 こいつが言っていた奴婢というものをオレは知らないが、恐らく奴隷よりは良い扱いなのだろうと思う。奴隷は労働力であり、物だ。奴隷を買うのは雇い主ではなく所有者なのだから。
 腐臭の酷い方へと足を進める。家々はがらんどうとしていて人が住んでいる気配はない。道など知る由もないが、恐らくこのまま腐臭を辿っていけば奴隷市のある場所へたどり着けるだろう。港の活気とは違って、昼過ぎなのにも関わらず薄暗いような、重苦しい空気が流れている。酷い腐臭に潮の匂いも届かない。しばらくも経たないうちに重なり合うようなうめき声と、奴隷を買いたたく声が聞こえ始めた。そのまま歩みを進めれば、この街のもう一つの港へと辿りついた。
「なんすか、ここ……」
 愕然とした様子で正樹が言う。宿に近い方の港と似たような作りになってはいるが、道ばたには多くの牢が並んでおり、その中には薄汚れた様々な人が入れられていた。
「お、そこのお姉さん、随分良い奴隷を連れてるねえ。どうだいもう一人、今度は可愛いのを連れてみないかい?」
 港にはきちんとした身なりの人間がチラホラ見受けられる。半分は奴隷商で恐らくもう半分は客だろう。港の入り口近くで奴隷に鞭を入れていた男がオレに声をかけてきた。
「こいつは奴隷じゃねえよ。その薄汚い口を閉じな。てめえの末路はてめえが鞭打ったソレより酷いかもしれねえぞ」
 なるべく威圧感を与えるように意識しながらオレに声をかけてきた男を追い払った。こういう場所ではできる限り威風堂々としているべきだ。空気に呑まれてはいけない。隙を見せたら今度は食われてしまうだろう。
 舌打ちをしながら、男は自分のテリトリーへ帰って行った。そのまま、自分の奴隷の一人に蹴りを入れるのが見えた。蹴りを入れられていたのは、先ほどまで鞭でうたれていた奴隷だ。オレと同じ赤い髪と瞳をしている。何度も嬲られたであろうその体には夥しい量のミミズ腫れが肌を這い、その肌も内出血によって至る所が変色していた。しかし、その瞳は強い光を灯したまま、自分に暴行を加える男をずっと睨み続けている。伸ばしっぱなしで腰まであるだろうかという長さの髪を引っ張られ、痛みに顔をしかめたその表情は、絶望の中にあってもそれでも、憎しみを抱き、隙あらば他人を喰い殺さんばかりの勢いがあった。
「っおい!」
「やめろ正樹」
 それを止めに入ろうとした正樹に静止をかける。口で言っても聞かないことは重々承知だったため、刃物を突きつけて止める。旅の途中で小動物や魚を捕まえてそれを捌く事はあっても、オレはそれ以外で正樹の前で刃物を取り出したことは無い。
「余計なことをするな」
 ただ事じゃないオレの雰囲気に、流石に言うことを聞く気になったのか正樹は泣きそうな顔であの赤い髪と瞳の奴隷から目をそらした。
「なんで……」
「目付きが悪いからだろう。生意気そうな顔をしてるしな。なんどもああやって暴行を受けてるんだろうけど、その度に主人を睨むもんだからもうアイツのサンドバックくらいの認識しか持たれてないんだろう。ガリガリだし、男か女か分かんねえけど、ありゃ商品価値なんてほとんど無いだろうな」
 もう一度その奴隷の方へ目を向ければ、鋭い目付きとオレの視線がかち合った。じっと、鋭いその視線でオレを見つめながらも、その瞳には羨望や悲壮感や助けを求めるような雰囲気は感じられない。ただただ、見てんじゃねえよと言わんばかりに他人を喰い殺そうとする殺気だけがそこにはあった。まあ、この港に本物の夢見の奴隷なんて数人いるかいないかで後は全部人間なのだろうけれど、あの奴隷は間違いなく人間だった。
 ぐるりと周りを見渡せば、そんなふうに暴行を振るっている光景は散見した。正樹はその一つ一つにショックを受けているようだった。
「この、こんな酷い目に遭ってる人たちはみんな夢見、っていう生き物なんですか」
「一応そういうことになってるな」
「人は、人じゃないってだけでこんな酷いことができるんですか」
 オレは、正樹に奴隷のほとんどが実際は夢見と銘打たれただけのただの人間であることは告げていない。そこまで言ってしまえば、こいつはこの場にいる奴隷を助けようと暴れだすのが目に見えている。今こいつが大人しいのは、辛うじて夢見という未知の存在がこいつの思考に歯止めをかけているからだ。
「お前は、人に似た姿をした夢見を、人と同じ存在として見るのか」
 ふと、気になったことを正樹に訊ねてみた。実際には今も、夢見と説明されたこの奴隷たちと人を同じ存在として見ているわけではないだろうけれど。
「当たり前じゃないっすか! なに言ってるんです?!」
 今にも泣きそうな顔で、声で、正樹は答えた。本当ならば、この場に異議を唱えたくて仕方が無いのだろう。虐げられている者に心を痛め、本当ならばあの赤い髪の目付きの悪い奴隷も助けたくて仕方が無いのだろう。
「じゃあ、夢見を奴隷として扱う人は同じ人として見れるのか?」
 では、そうして酷いことをする奴隷商もこいつは同じ人だと言うのだろうか。それも、予想してはいたけれど、正樹は少し言葉を飲み込んでからそれでもどこか当たり前だという響きを持って答えた。 「う、それ、は、同じ人だと思いたくはないっすけど、見れます。人ですもん」
「なんで?」
「へ?」
「なんで、自分が理解できない事を、自分がおぞましく思う事を平気でやってのける連中を同じ人だと思う? 自分と同じ姿をしているから?」
「え、と。それは、その人だって、笑ったり、泣いたり、怒ったり、悲しんだりする心があるはずですから。きっと、何かのきっかけさえあれば分かり合えます。夢見を奴隷にするのは酷い事だって……」
「自分と同じ感情を持ってるから、人なのか」
「えっ、はい」
 そうか。とそれしか言葉がでなかった。自分と同じ感情を持っているから人だというのであれば、やはり夢見は人ではないのだろうと考えるオレは、やはり相当夢見にコンプレックスを抱いているらしい。ただ、感情を持ち合わせる者達はすべて分かり合えるという正樹の馬鹿みたいな絵空事は、正樹の前では真実であり続けてほしいと願う。
「姉御は、これを見せる為に朝からあんな難しい話をしたんですね」
 人々の動線の邪魔にならない場所から、奴隷達が積み荷を運ばされていたり、奴隷達自身が積み荷になる様を正樹と眺めながら、ぽつりと正樹がこぼした呟きには見慣れないものを見た疲れが滲んでいた。
「俺たちが今まで食べていたものや見てきたものに奴隷の人たちが関わってないものってどれくらいあったんでしょうか」
「さあな。ただ、オレたちが明後日に乗る船は、奴隷を中部へ運ぶ輸送船だ」
 そう告げてやれば、正樹が愕然とした表情でこちらを向いたのが視界の端に見える。言葉にされるまでも無く表情にはっきりと失望したと書かれている。ある程度覚悟を決めてはいたことだったけれど、やはりそういう表情を向けられてしまうと胸が痛む。少しだけ顔の向きを動かして正樹を見れば、何かを言おうとして口を動かしかけては黙りを繰り返していた。
 船に荷を運ぶ奴隷の中に、先ほどの赤い髪をした目付きの悪い奴隷がいた。明らかに栄養不足で華奢な身体とは裏腹に見るからに重そうな木箱を人より多く運んでいることから、意外と力があるのかもしれない。一瞬男だったのかとも思ったが、肩幅や身体のしなやかさ、貧相ではあるものの筋肉の上に申し訳程度にうっすらとついた脂肪はおそらく女性のものだ。正樹も、オレと同じようにその奴隷を痛ましいものを見る表情で眺めながらおそらく、無意識に言葉を発した。
「トモさんって、そういう人だったんすね」
 どういう人だ、とは聞けなかった。声に避難の響きがあると思うのはオレの被害妄想か。多分違う。あの奴隷の強い光を未だ失わない美しい瞳が脳裏に浮かぶ。たぶん、アイツの目はオレよりずっとずっとキレイだと思う。
「すみません、もうこれ以上俺はここに居れません」
 顔を手で覆いながら正樹がついに限界を訴えてきた。オレはそれに短く答えて港を後にした。空気は徐々に強い腐臭から潮の匂いに変わる。陽はまだ高く、さほど長い間あの場所にいたわけではないが、もうずっとあの場所に留まっていたような気がした。宿に着く手前で、オレは改めて正樹に訊ねた。
「正樹、本当にオレと一緒に船に乗って中部へ行くのか」
 正樹は、今朝と同じ真っ直ぐな瞳でもってオレの問いに答える。
「はい。オレは姉御に雇われた傭兵ですから」
 奴隷市のある港の時と同じように、オレはそうか、としか答えられなかった。けれど、恐らく今、オレと正樹はきっと対等ではなくなってしまった。世界は朝と全く変わっていないのに、正樹の中で世界は変わり、オレと正樹の関係もきっと変わってしまった。
 たった今、オレたちは一緒に旅をする仲間から、決定的に傭兵とその雇い主になったのだ。