煙草と研究者と旅人

 買い物の帰り道、ふと路地裏に目をやれば見窄らしい風体の男が座り込んで何かを広げていた。何となく気になって、暗がりにじぃと目を凝らしてみる。男はその何かをくるくると巻いて短い棒状にして、それを並べているようだ。なんとも手際良く、くるくるとそれを巻くものだから、感心した気持ちでその男を眺めた。男が立てているのであろう、かさりかさりという微かな音が聞こえる程にこの場所は静かだ。そして、酷く陰気臭い。昼前の街の明るさや、人々の活気からは程遠く、徒歩で数分のその距離の間に異世界に迷い込んでしまったかのようだった。くるくると何かを巻く仕草をしていた男は何本目かのそれを巻き終えると、不意にその一本を口にくわえて、それに火をつけた。立ち上る香ばしい匂いに、オレはようやくそれが煙草であることを理解する。ここしばらくご無沙汰している懐かしい匂いだ。暗がりで良く見えないが、男が美味そうに煙を吐き出したようなのでオレはそこを立ち去ることにした。
 南部に下ったばかりの頃にお世話になった師匠も、よく煙草を吸っていた。とはいえ、師匠が吸っていたのは巻煙草ではなく、刻み煙草だったけれど。高価な煙管に高価な葉を惜しみもなく入れ、火をつけ、ぷかりぷかりと旨そうに煙をふかす姿を見たのはもう数年前のことになる。美味しいのかと訊ねたら、旨いが小娘の吸う物じゃないと言われたのをよく覚えている。たぶん、その時吸っていたのは煙草ではなかったのだろう。阿片や大麻の類いだったのかもしれない。
 玲・グラスィエの管理する研究所の扉を開け、適当な机に、どさりと買ってきた物を置いた。ここに居候させてもらって、そろそろ半月ばかりが経とうとしている。見知らぬ旅人に宿として研究所の一室を貸すなんて、オレが言うのも難だがグラスィエという男は相当なお人好しだと思う。誰もいない研究所は、いつにも増して静かだ。グラスィエも、グラスィエの研究生であるピピも昨日から学会に出ている。帰ってくるまでに、まだ時間がかかるだろう。
 南部は治安が悪い町が多く、どの町でも路地裏で粗悪品を売っていたのをよく見かけた。師匠には、粗悪品には絶対に手を出すなと釘を刺されていたから、それらに手を出すことは無かったのだけど。タチの悪い混ぜ物を売って、購入者をヤク漬けにし、奴隷や売春婦に仕立てあげることがあるそうだ。
 オレの寝床にと割り当てられている、研究所の一室に、自分の財布を取りに行く。あの夢見の加護は未だ続いているらしく、オレは相変わらず金には困らない。なんだかんだと路銀を稼ぐ手段に恵まれ続けている。決して軽くはない財布を掴むと、オレはあの路地裏に戻った。
 以前、宿で熱を出したことがあった。南部の田舎町でのことだ。宿の主人はすぐに薬売りを呼んでくれて、薬売りはいくつかの問診の後に薬草を煎じたものを置いていった。彼らが言うには、その薬草の煙が体の悪いものを追い出してくれるのだそうだ。宿の主人が器用にその薬草を紙で巻き、火を付けてくれたのを、オレは言われたとおりにそれを咥えてゆっくりと吸った。そんで、酷い目にあった。控えめに言って、最悪だった。煙は喉と鼻に染みるし、頭痛は酷くなるし、吐き気を催すしで、じつはこいつらはオレを殺す気なのではないかとさえ思った。酷く咽るオレの背中をさすりながら、お前の身体が悪いものを追い出そうとしている証拠だと励ます宿の主人を酷く恨んだこともよく覚えている。あと少しオレに元気があったならば、多分オレは宿の主人をしばき倒していたんじゃないだろうか。その時、初めてオレは煙草を吸い、煙草が薬として扱われていることを知った。そして、口の中に微かに残る煙草の香りもその時に憶えた。
「産地は?」
 男の目の前には立たずに斜めから、ぷかぷかと煙草をふかす男にそう声をかければ、男はこちらに目を向けた。遠目で見た印象よりもずっときちんとした身なりをしている。浮浪者かと思っていたが、この辺ではなかなか見ない服の意匠や飄々とした雰囲気から、おそらく旅人だろうと見当をつけた。男も、一瞬オレを値踏みしたようだったが、オレも旅人であることはすぐに分かったのだろう。長く旅をしている旅人は、なんとなくそういうのが判るものなのだ。
「北部の西側、山間部の町の粗悪品さ」
 比較的綺麗な中部公用語で男は答えた。肩をすくめて、詰まらなそうにしている。北部の西側にある山間部の町ということは、以前滞在した山間部の町で間違いないだろう。あそこの酒は旨かった。酒が名産品であることは旅に出る前から知っていたのだが、あの町が酒の他に煙草の産地としても有名らしいのは滞在して初めて知ったことだ。
「粗悪品って言っちまって良いのか」
「あぁ、粗悪品は粗悪品だからな。けど、混ざりもんはねえよ。品質が悪くて売り物にならないのを安く買い取って、旅先で路銀稼ぎに使ってるのさ。けどこの町はダメだな。治安が良すぎて、だーれもこんな粗悪品買いやしねえ」
「間違いないな」
 そして、オレも男も同時に笑う。治安が悪い町というのは、確かに身の危険はあるが、旅人にとって貴重な路銀稼ぎのチャンスがある町でもある。そういう町には物流ルートが確立されておらず、旅人たちの小遣い稼ぎ程度の行商が非常に有難がられる事が多い。特に、嗜好品の類いなどはそれが顕著だ。ただ、この町のように、治安が良い町というのは、その町だけで高水準の生活が成り立つ仕組みが成立してしまっていて、オレらのような余所者の稼ぐ余地はほとんど無かったりする。そして大抵の場合、宿代が高い。まったく、身の安全が保証されてること以外は踏んだり蹴ったりだ。
「一本くれよ」
 旅人同士の同情、というわけでもないがオレは小銭を取り出して男に差し出した。
「俺の話を聞いてなかったのか?」
 オレの申し出に、男は驚いたようだった。訝しげにオレを見てくる。オレはもう一度軽く笑って、話なら聞いてたさと言った。
「混じりものが無い、山間部の町の煙草なんだろ? あそこの正規品は旨いが、たけぇんだよ。粗悪品だって、そこら辺の安物よりかは旨いだろうさ」
 オレの言葉を男は意外そうに聞いていた。
「へえぇ、お前さん煙草の良し悪しが解る人かい」
「意外だったか?」
「あぁ、そんなやつが路地裏の怪しいやつから煙草を買おうと思ったことが意外だね」
「成程。そんなこと思ってないくせに」
 そして、オレは煙草一本分ほどの小銭を渡した。男はそれを軽く確かめると、煙草を何本か適当に取って渡してきた。
「一本でいいのに」
「良いんだ。どうせ売れねぇし、そろそろ駄目になっちまうからな。やっぱり稼ぐなら正規法が一番だって身に染みたよ」
 そうして男はため息をついた。大して期待もしていなかったとしても、人は望んだ結果が得られなかった時は落ち込むものだ。
「あの町は人の出入りも多いし、酒も煙草もいろんなところに流通してるしな」
 慰めにもならないだろうが、商売が上手くいかなかった原因らしき事をあげてみれば、男はそれに縋るように食いついた。
「ほんとそれな!」
「煙草で人を指すなよ」
 煙をこちらに向けて、苦労を察してもらったからだろうか、機嫌良くニカッと笑う男を軽く窘める。いくらなんでも煙草を向けられていい気はしない。しかし、男の反応から大体出身が分かったような気がした。
「あんた、出身は中部の南の方?」
 尋ねてみれば、思った通りの回答が返ってくる。
「お、よく分かったな」
「あの町の品物は南の方にあんまり流通してねぇし、あんたの言葉には南部訛りが、なかったからな」
 もし、中部の中央から北側の出身であれはば、山間部のあの町の流通の良さは知っているはずだから、こんな商売はしないはずだ。そうなると、中部から南の出身であると考えられる。しかし、男の言葉遣いに南部訛りがない事から男の出身は中部の南の方になるという訳だ。
「そういうお前さんは中部の首都らへんの出身だろう? 少なくともアカデミーは出てるとみたね」
「当たりだ。首都から一週間ほど歩いたところにある農村の生まれで、中等教育を出てる」
「やっぱりな。上品な言葉遣いじゃねえけど、随分綺麗な発音だと思ったよ」
 長く旅を続けると、自然とそういうのが分かるようになるものなのだ。男は、オレの反応に満足したらしく、じゃあなとオレを振り払う仕草をしてもう一本煙草に火をつけた。オレもそれに軽く返事をして、早足でその場を立ち去った。これ以上話してると一緒に酒を酌み交わしたくなるのが旅人の性分というものだが、生憎と今はグラスィエの世話になっているのだから大人しくしているのがスジというものだろう。
 山間部の町の酒場では、殆どの人間が酒と一緒に煙草を嗜んでいた。その町で出会った豪快で人の良いイサクという男も、例に漏れず愛煙していた。その町では、もう一人、旅人のニードという青年とも出会ったのだが、彼は煙草が苦手だった。酒の席で、オレとイサクに半ば強引に吸わされて咳き込んでいた姿をふと思い出して思わず一人で笑う。
 グラスィエの研究所の壁沿いの、細い路地に入って買った煙草に火をつけた。じり、と火が燃える音が心地よい。たっぷり時間をかけて一口目を吸うと、秋の収穫前の黄金の稲穂畑を前にしたような懐かしい香りがひろがった。豊穣と、哀愁の、ほろ苦い香りだ。どこか土くさく、けれど力強いあの光景を彷彿とさせる。ふぅと煙を吐き出せば、口の中に微かな甘さが残った。
「……これのどこが粗悪品だよ」
 恐らく、少し湿気っていたのだろう。適度な湿度は煙草を甘くする。葉も、通常流通してるものよりもかなり密に詰められている。じっ……と火の燻ぶる音を聞きながら少しぼうっと過ごす。久々に吸ったからだろうか。頭が少しくらくらした。
「……何をしているんだ」
 そのまま、なんとはなしにぼうっとしてたら、いつの間にかグラスィエがこっちを見ていた。透き通った空色の髪と、燃え盛る紅蓮の瞳のコントラストが相変わらず綺麗だ。煙草はもう随分と短くなってしまっていて、勿体ない、と思いながら足で踏んで火を消して燃え残りを拾う。青は冷静さや知性を連想させ、赤は情熱を連想させる、というのは心理学の研究結果だっただろうか、それともオレの思い込みだろうか。少なくとも、玲・グラスィエという人物を表すにしてはその髪と瞳の色は少々、出来過ぎているのではないだろうか。
「煙草吸ってた」
 まだ少し煙草の煙でくらくらする頭を、壁にこつんとあずけてそう答えれば、グラスィエが少し顔をしかめた。おそらく、煙草に良い感情をいだいていないのだろう。特に、富裕層や知識人には煙草に良い感情をいだいていない人が多い。
「最近の研究結果じゃ、煙草は身体に悪影響を与えるらしいな」
「ん、吸っててもそんな感じはする」
「なら、何故そんなわざわざ……」
 呆れた、というより不可解さが勝った表情をグラスィエはした。煙草を売っていた男なら、そんなことは言わないだろう。旅人はそういう生きものだ。
「南部の一部の地域じゃ、煙草は薬の一種だって知ってたか?」
 オレは、少しの揶揄をもって、グラスィエの問いにそのまま答えることはせずに、少しはぐらかす事にした。
「いいや、初耳だ……もしかして薬として吸っているのか?」
「いや、ただの嗜好品」
 なら尚更、何故と、その出来の良いはずの頭をフル回転させながら首をひねるグラスィエを見るのは、わりと愉快だった。しばらくそうして、何もせずにグラスィエを眺めていたが、いよいよ、お説教に入ろうとする空気を感じ取ったのでオレから声をかける。
「まぁ、初めて吸ったきっかけは薬として薬売りに処方されたからなんだけどよ。案外、煙草も奥深いもんさ」
「と、いうと?」
 グラスィエにしてみれば納得がいかないのだろうに、そんな態度を表に出さず、きちんとオレの話を聞こうとするその態度をオレはわりと尊敬している。人として、グラスィエは出来ていると思う。
「産地やその日の天気、吸い方なんかで随分と味が変わるんだよ。息をゆっくり吸って吐くというプロセスもあるから、自然とリラックスもできる。これは北部と中部を繋ぐ山間部の町の煙草なんだけど、結構美味いよ」
「肺や喉に負担がかかるそうだが」
「毒を喰らわない奴が、丈夫とは限らないだろう?」
「……なるほど、一理あるかもしれないな」
 そう言ったっきり、グラスィエは何かを考え込むようにして黙った。相変わらずクソ真面目だなあと思いつつ、オレは懐からもう一本煙草を取り出した。さっきは、ぼうっとしてほとんど吸わないままに燃えてしまったから、今度はよく味わおう。煙草を口にくわえて、マッチ棒を探せば、最後の一本だった。
「なぁ、トモ。私にも一本くれないか」
「……は?」
 一口目をたっぷりと時間をかけて吸って、吐き出したところで、グラスィエが煙草をねだってきた。予想外の展開に、思わずまじまじとグラスィエの顔を覗き込めば、少し顔を赤らめてバツの悪そうな表情をしていた。
「なんでまた?」
「経験もないのに、批判するのも学者としてどうかと思っただけだ。手持ちが少ないのなら遠慮しよう」
「あー……別にいいよ。いつも吸ってるわけじゃねぇし、ほんとは久々に一本だけのつもりだったし」
 はい、とグラスィエに煙草を渡してはたと気づく。オレはたった今、マッチ棒を使い切ったばかりだった。まぁ、でも、マッチじゃなくても火の着け方は色々ある。
「んじゃ、端を咥えて……そうそう、そんな感じ。ちょっと失礼」
「うわあぁ?!」
 マッチの代わりに、オレの咥えてる煙草から火を着けさせようと顔を近づけたら、グラスィエは大きく仰け反った。
「な、なんのつもりだ?!」
 ついでに、声も裏返っている。顔は真っ赤だ。そういえばグラスィエは女性に耐性がないんだったと思い出す。なんだか、グラスィエがオレを女性として認識してることが可笑しかった。
「いや、火をつけようと思って」
 悪びれもせず、くつくつと笑うことも我慢せずにそう言ってやれば、グラスィエは少し拗ねたような呆れたような様子だった。
「マッチを使えばいいだろう」
「さっき使い切っちまったんだよ。だからほら、早くしないと火が消えちまう。あ、火を移す時は吸いながらじゃないと燃え移らないからな?」
「そういう事は先に言ってくれ!」
 もう一本、煙草をグラスィエに手渡し、今度こそグラスィエの咥える煙草の先にオレの燃えているその先端を触れさせた。
「吸って」
 チラとグラスィエの方を伺い見れば、彼の情熱そのもののような赤い瞳はオレから逸らされていた。薄い唇が煙草を挟んでいる様は酷く不慣れだ。研究で乱れた生活をしてるにも関わらず、彼の肌はなめらかでシルクのよう。少し赤い彼の顔に、あぁ、本当に彼はオレを女性として見ているのだと思うと、少し頬が緩む。こうして改めて近くで見ると、グラスィエは整った精悍な顔つきをしている。決して、濃くはないその顔つきは、彼の誠実さを際立たせていた。
 町の喧騒から遠い路地裏で、こうして二人きりで顔を突き合わせていると、悪いことをしているわけでもないのに妙に背徳的に感じるから不思議だ。たかが煙草の一本ではあるのだが、真面目で誠実で実に模範的な善人を誑かしているような、ほの暗い快感がある。煙草の匂いが、彼の体臭をかき消している。グラスィエがそのまま息を吸おうとしたようで、声が少しだけ漏れた。少し掠れて低い、普段は聞けない声。それから、ジ……と火が燃え移る音が聞こえたから、オレはそっとグラスィエから離れた。名残惜しい気がするのは、多分気のせいじゃない。
「ゲホッ……ごほ……にがっ、辛い……!」
 そしてオレが離れてすぐに、グラスィエはゴホゴホと咳き込んだ。おおかた、息を吸えというオレの指示に馬鹿正直にしたがって息を深く吸いすぎたのだろう。
「けほっ……君はこれのどこが美味しいと言うんだ……」
「一気に煙吸い込むからだよ。半分くらい空気を含ませてそっと吸うの。そんで、口の中に煙を溜めて、それを吸い込まずにそのまま吐き出せ」
 オレも煙草をふかしながらグラスィエに説明してやる。気づけばオレの煙草はもう半分以下になっている。またも、味わい損ねたと思いつつも、そんなに悪い気はしないのはオレが普段煙草を吸わないからだろうか。それとも、目の前の男が咳き込みながらも律儀に煙草を吸う姿を見ることができたからだろうか。
「どうだ?」
 最後の一口を惜しみながら吸い込んで、煙草の火を消して、グラスィエに感想を尋ねてみた。
「……私は二度とこんなもの吸わないだろうな」
 けほけほと、いまだ軽く咳き込んで、少し怒ったように、疲れたように、グラスィエはそう言った。それにオレは軽く笑うことで応えた。
「何がそんなに可笑しいんだ」
「ん、いや、何が可笑しいって……グラスィエの人生の最初で最後の一回に、通りすがりの旅人のオレが立ち会ったことかな」
 少し拗ねた様子のグラスィエの問いにそう答えた。そしたら、グラスィエは少し不可解そうにオレの方をまじまじと見てきた。 「何も。通りすがらなくとも、君さえよければずっとここにいれば良い」
「へっ?」
 予想外の言葉に、思わず素っ頓狂な声を上げる。グラスィエも、口が滑ったようで、手を口に当て、オレと反対の方に顔をやっていた。けれど、髪の合間から覘く耳は確かに赤い。
 どこか一箇所にとどまるということを、今まで考えたことがなかったと言えば嘘になる。けれど、どこも留まるには少しばかり郷愁の心が勝るばかりだった。今度も、笑いながら、考えておくよと軽く流そうと思ったのに、グラスィエの彼自身でさえ予想外の誘いの言葉にオレの心は燻ぶりはじめた。
「……気にしないでくれ。ただ、学会の最中、君の手料理が恋しくなっただけだ」
「おまっ、それ、それは……」
 まるでプロポーズじゃないか、という言葉は辛うじて飲み込んだ。グラスィエは自分の言葉がプロポーズじみていることになんて、まったく気付いていないのだろうから。その証拠に、何度か深呼吸を繰り返して、グラスィエはすでに平常心に戻りつつある。
「……じゃあ、その飯を作るためにそろそろ戻るか」
 絞り出した言葉は不自然じゃなかっただろうか。頭がクラクラするのは、今度は煙草の煙のせいじゃない。心の中で燻っているこの感情は、煙草よりもずっとずっとタチが悪い。
「なぁ、玲って呼んでもいいか」
「なんだ、急に」
「別に。グラスィエって長ぇなって思って」
「それもそうだな」
 薄暗い路地から踏み出して一歩。振り返って玲の方を向く。
「玲」
 陽はもう落ち始め、あたりを夕暮れに染め始めた。
「ん、なんだ」
「いや、呼んでみただけ」
 ここに留まることを決められはしないが、声に出した彼の名前は郷愁の心をかき消す程に心地よい。
 風に乗って微かに香る煙草の匂いが、遠く町の中へと消えていった。