煙草と研究者と旅人

 波の音と出航の準備に追われる船乗りたちの声が港に響き渡る。空は晴れ渡り、潮風が心地よく肌を撫ぜ、海鳥の声が出航に高鳴る心を更にざわつかせた。三日間の滞在のうちで一番の賑やかさを感じる今日は、いよいよ中部へと向かう船の出航の日だ。三日間という短い期間であったのにも関わらずこの街での滞在は今までの中でトップクラスの濃度を誇った。それは、隣にいる、この、ようやく傭兵見習いの道を歩み始めた男の所為でもあるし、この街を取り仕切る男の所為でもあるだろう。黒髪に眼鏡をかけ、左の口元にほくろを拵えた、少年の域を出るかでないかといった齢の男は気の赴くままに人生を謳歌していた。その趣味の悪い娯楽にしょっちゅう付き合わされていると思わしき部下たちにはいささかの同情を禁じ得ないが、おそらく、そういう質の悪さもひっくるめてこの街の当主である相模の魅力なのだろう。
「さすがに出航の日となれば活気も違いますねえ……」
 阿呆のように口をポカンとさせて、正樹が間の抜けた顔でぼんやりと呟いた。カラッとした活気の港に、奴隷たちの売買が行われていたこの町のもう一つの港をどうしても重ねてしまうのだろう。潮風が、海独特の生臭さを運ぶ度に、正樹は微かに顔をしかめてみせた。潮の生臭さは、少しだけ、奴隷たちの悪臭を彷彿とさせる。
相模の方針か、昔からの習慣かは知らないが、こっちの港に奴隷たちの姿は見えなかった。しかし、目の前に佇む大型船はもう一つの港で見た、奴隷たちが荷を積み、自らも荷として乗り込んだそれと確かに同じものだった。
「……見事に潮の匂いしかしない」
 すん、と鼻を鳴らして正樹が言う。オレにとっては奴隷たちの悪臭も潮の臭いも同じようなものなのだが、海沿いの村で生まれ育った正樹にとっては違うのだろう。続けざまに、すん、すん、と臭いを辿っていたが、汗くせぇと呟いたきり静かになった。目の前で汗だくの筋肉質の男たちが出航の準備を進めているのだから多少汗臭いのは、よく考えれば当たり前のことなのだが。犬じゃねえんだから、と言いそうになってやめた。言ったら、こいつはきょとんと間抜けな顔を晒して、オレの言葉のあるはずもない真意を探して、結局見つけられなくて困り果ててしまうだろうから。他意は無い。ただ、正樹を見てると妙に大型犬を見ているような気分になるだけなのだ。
 ふと、この船に昨日見かけた赤毛の奴隷は乗っているのだろうかということが頭をよぎった。オレと同じ赤い髪と瞳を持った女の奴隷。オレと、一緒の。けれど、きっとオレの瞳には宿ることの無い美しい意志の煌めきをその瞳には輝かせているのだろう。燃える炎の瞳を持った名も知らぬあの奴隷は、オレと一緒に海を越えるのだろうか。あの瞳の煌めきは、隣に居るこの愚直な青年の瞳に宿るモノと似通っている気がした。良くも悪くも、強く、純粋なのだ。どんなに世界を呪いたくなろうが、非道い目に遭おうが、その瞳は真っ直ぐに目の前にあるものだけを見貫く。善も悪もだ。オレのように、目を背けはしないのだろう。オレのように、ずっと過去を眺めたままではないのだ。
「姉御、そろそろ行きませんか?」
 そうやってまた、目の前の風景を透かして過去の風景を眺めかけたところで、正樹が声をかけてきた。
「ん、そうだな」
 鞄から、二枚の木片を取り出し、船乗り場に立っている男に渡す。男は、オレと目が合うと少し意外そうな顔をした。おそらく、相模の部下なのだろう。この船も、相模の所有物なのだから。おそらく、男の目に映ったオレは笑っていたことだろう。なんとなく、この街を仕切るというには少々甘っちょろい男がオレより歳上と思わしき人々を部下として従えていることが可笑しかった。
 あぁ、そうだ。すべてが可笑しい。人と夢見が決定的に違う生き物だということも、それ故に人が夢見を隷属させることを悪しとしないことも、その現実を盾にして人が人を隷属させることも。その現実を仕方ないと受け入れているオレ自身も、可笑しくて仕方ない。
 どうもこの街に来てから思考がなんともつまらない方向へ向かってしまって仕方ない。オレ自身の思考から逃げるように客室に足を踏み入れると、そこには居るはずのない先客が居た。
「よォ、シケたツラしてんじゃねぇか」
 ニヤニヤと人を見下した笑みをしながら、正樹の体がなんとか収まるかどうかという広さの寝台にどっかりと座っているのは、この船の所有者だ。御丁寧に手には火のついた煙草を持っており、船室には煙が充満していた。隣で正樹が噎せている。
「何してんだ相模……つーか船室で煙草吸ってんじゃねえよ」
「俺の勝手だろ?」
「ケホッ、姉御、お知り合いっすか?」
「知り合いも何も……正樹、てめえも会ったことあんだろ」
 アホヅラで首を傾げる正樹を尚も小馬鹿にしたように眺める相模に頭痛がしてくる。思わずこめかみを押さえてこの状況をどうしようかと考えていると、相模がくつくつと笑いながら話し掛けてきた。
「一昨日も思ったが随分と躾のなってねえ犬を飼ってんな」
「あぁ、まったく。どうやらオレは犬を飼うのには向いてないようだ」
 言うまでもなく、犬とは正樹のことだ。正樹にしてみれば、失礼な話に違いないが、このアホはアホヅラを精一杯しかめながらオレと相模が何故急に犬の話を始めたのかを考えているからまぁ、問題ないだろう。その証拠に、うんうん頭を悩ませて悩ませて、結局どうしようもなかったらしい正樹はオレに助けを求めるような視線を送ってくる。さて、この男をどう説明したものか。この船の所有者だと言うのが一番簡単ではあるが、あまりそれは伝えたくない。正樹はまだ、自分が今、奴隷を乗せた船に乗っているという事実を本当の意味で飲み込めてはいないはずだ。その嫌悪感を受け止めきることもできず、しかし、形式上とはいえ雇い主であるオレの意向に逆らうこともできず、ただ、いつもの日常を演じているだけなのだ。
 仕方なくため息を一つだけついて、この船のオーナーである目の前の男がわざわざこんなクソ狭い部屋にいる真意を問うことにした。
「で、なんでこんなとこにテメェがいんだよ」
「ずいぶんな物言いだな」
くつくつと、また、愉しげに相模は笑うと、使い古した袋を取り出した。
「これをくれてやろうと思ってな」
 もうボロボロになっているそれは、どこかで見たことがあるような気がする。とはいえ、どこにでもあるような袋だったから思わず訝しげに顔が歪むのが分かった。どこまで人をおちょくれば気が済むのかと文句のひとつでも言ってやろうとした時、正樹が急に声を上げた。
「俺の財布! なくしたと思ったらあなたが持っててくれたんっすね!」
 正樹のあんまりな言葉に、オレは開きかけた口をそのままあんぐりと開けて正樹を見た。あぁ、頭痛がする。コイツは本当にオレと別れてやっていけるのだろうかと不安になる。
「なぁ、コイツ白痴なのか」
「いや、ただの馬鹿だ」
 正樹の方へ軽そうな袋をポイッと投げて相模は呆れたように言った。正直オレも呆れている。正樹は馬鹿みたいに、いや実際馬鹿なんだけど、相模にお礼を言っている。
「おい、正樹。多分それ、アイツが盗んだんだぞ」
「えっ?」
 正樹は、キョロキョロと視線をオレと相模に何度か行き来させたあと、もう一度えっ、と聞き返した。
「おい、マジでこいつ大丈夫か」
「さぁ……?」
 相模の問いかけに、否定することも、頷くこともできずに、オレは曖昧に言葉を濁す。正樹が困った顔でこっちを見ている。困っているのはこっちの方だというのに。
「えっ、いつ……? っていうかなんで姉御は解ったんっすか?」
 困惑を隠すこともせずに、正樹が訊ねてくる。なんて答えようかと考えあぐねていると、相模がゴソゴソと黒い何かを取り出して頭に被せた。
「おぅ……」
 さすがの正樹も、女に見紛う姿の相模にまともに言葉が出ないようだった。まだ発達の余地のある細い体に、決して男くさくはない顔立ち、そこに長い黒髪とくれば、その姿はどこから見ても女にしか見えない。相模は妙に色っぽい顔で笑った。
「お前が声かけたっつー女はアレか?」
「アレっすね……」
「な? 男だったろ」
 あれから何度言っても、オレが船の斡旋所に言っている間に正樹が声をかけた相手が男であると信じなかった正樹も、ようやくオレの言うことを信じる気にだろう。正樹は、しばらく何かを考え込むそぶりを見せて、それから真面目な顔でこう言った。
「いやでもアリっすよ」
「えっ」
「えっ」
「……えっ?」
 しばらく、狭い空間に重い沈黙が降りる。何が、とは聞けなかった。相模も微妙な顔のまま固まっている。思えば、旅の間コイツはあの女が可愛いだの綺麗だのそういうことは一切口にしなかった。オレに遠慮してるものだとばかり思っていたが、いや、これ以上考えるのはやめよう。迷惑さえかけなければどういう人を好きになろうが悪いことはないはずだ。
「あーっと、もし食いっぱぐれることがあったら俺んとこで雇ってやんよ」
 ようやく言葉を口にしたのは相模だった。薄ら笑いを浮かべながら言った雇うという言葉には嘘はないだろうが、碌でもない仕事をさせられるであろうことは想像に難くなかった。
「えっ? マジっすか?! なんだ良い人じゃないっすか」
「やめとけ正樹。ケツ掘られんぞ」
「ちょっ、姉御! 下品っすよ!」
 顔を真っ赤にする正樹に、論点そこかよと突っ込む気力はもうなかった。
「いやぁ、体格いいやつってモテるもんだぜ? 組み敷きてえってやつもいるし、抱かれたいってやつもいる。天職なんじゃねぇの?」
 にやにやと人の悪い笑みを浮かべながら相模は続けた。
「なぁ、ダーリン?」
 視線の先にいるのは正樹だ。値踏みするような目で全身をなめまわしている。こいつのこういうところに、裏の世界で生きる者特有の毒気を孕んだ空気を感じる。関わってはいけないと頭の中で警報が鳴る嫌な気配のようなもの。正樹も、緊張した面持ちで相模を睨み返した。
「おぉ、怖い怖い」
 相模は頭を数回横に振っておどけた様子を見せる。正樹は、今まで飾りのようでしかなかった腰に下げた刀に手をかけていた。一昨日の、裏道の時とは違い、周りに人の気配はしない。傭兵としては、正しい反応だろう。いささか、遅すぎるような気もするが。
「おい、相模。要件は済んだだろう。もうそろそろこの船も出港するんじゃねえのか」
 いい加減、この男の悪趣味な遊びに付き合うのも疲れてきたので、それとなく出て行くように促した。相模は、それを気にした様子もなかったが、応じる素振りも見せず、ただ一言こう言った。
「佳月だ」
「は?」
 文脈が繋がらず、オレは思わず短く聞き返した。相模が座っている寝台の側には、小さな窓が一つついている。ちょうど、相模の背にあるそこからは陽の光が差し込んでいて、相模の顔に影を落としている。相模の笑みは、その影に相応しく感じた。裏の世界に生きるものの、陽を背に人を喰いものにする愉悦の笑みだ。
「俺は、相模佳月だ」
「佳月……ねぇ……」
 だからなんだ、という言葉は飲み込んだ。相模は、この地を統べる一族の名だ。この目の前の男を指す名ではない。相模佳月。美しい響きを持つ名だと思う。長い黒髪の鬘のよく似合う男に相応しい名だ。
 相模は、鬘を脱いでようやく寝台から立ち上がった。明るく暖かい陽を背に、堂々と。
「今度はもっとちゃんと可愛がってやんよ」
 すれ違いざまに囁かれた言葉に、顔がカッと熱くなるのがわかった。
「じゃぁな。せいぜいくたばんなよ」
 ぱたん、と閉じられた扉を睨んだまま、オレも正樹もしばらく動けずにいた。波の音と海鳥の鳴き声が聞こえる中、しばらくして、出港を告げる汽笛が鳴った。もしかしたら、相模が船を降りるのを待っていたのかもしれない。正樹はそうしてようやく手を刀から離すとどっかりとその場に座り込んだ。
「俺、傭兵向いてないかもしれないっす」
「……今更気付いたのか」
 船は、ゆっくりと動き出した。小さな窓から、港が離れていくのが見える。ちらと、相模が立っているのが見えた気がした。活気に満ちた港の中にぽつんと立っているその姿は相模には似合わない。昏い影の降りた狭い裏道で、人をおちょくるように楽しく生きる姿こそが、相模にはよく似合うように思った。オレは寝台に腰を下ろして、床に座り込んだままいじけている正樹を見た。窓から差し込む光がちょうど正樹を照らしている。
「てめぇが傭兵向いてねえなんて、てめえと会って二日で気付いたっつーの」
 そう言ってやれば、正樹はさらにショックを受けたようで縋るようにオレを見た。
「馬鹿正直で、人を疑うことを知らなくて、すぐに騙されるし、女装した男のハニートラップには引っかかるし、バカだし、脳みそまで筋肉で出来てんじゃねぇかって思うけどよ」
 正樹の故郷の、決して大きくはない定期船とは違って、中部へと向かうこの大型船はさほど揺れないし、波の音も聞こえない。情けないことこの上ないこの青年は、これから見知らぬ土地で一人で生きて行くことになる。きっと、希望より、不安が大きくなったのだろう。それでも、オレはこいつと別れる決意を揺らがせはしない。
「でも、そんなお前とだからオレは一緒に旅をしたんだ。確かに、お前のその甘さは時に自分や他人をも傷つけるだろうな。お前のその無知は何度も危険を運んでくるだろうよ。力だけじゃ、どうにもできないことだらけだ。けどよ、その優しさで人を救うこともあるだろう。正直な気持ちは誰かの心に響くこともある。力が必要な時、お前は誰よりも頼りになるだろうな。相模のような生き方をする奴は世の中にいっぱい居るもんだ。もっと質の悪い奴もいる。そういうのとの付き合い方は、学んでいくしかない。正樹、堂々としてろ。お前の目で、心で、堂々と世界に対峙すれば、世界はそんなに悪いもんじゃない」
「でも、姉御は俺を置いて行くんでしょう」
「あぁ。そろそろひよっこも独り立ちしなきゃなんねぇだろうしな」
「無理です! きっと俺、身ぐるみ剥がされて知らない土地で転がされるに決まってます!」
 半泣きで、悪い想像に怯える青年は、とても小さく見えた。出会って一年、やはりオレが甘やかしすぎたのだろう。そういうことに怯えるのが遅すぎる。
「大丈夫だよ。死ななきゃなんとでもなる」
「そんなぁ……」
「あのな、そんなんオレだって一緒だぞ? そうならねぇように頭いっぱい使って、なんとか町を渡り歩いて、そのなかで、いろんな景色を見たり、いろんな人に会ったりしてきてんだ。そのなかで、正樹とだけ、一緒に旅をしてもいいって思ったからここまで一緒に来たんだぜ? でも、中部で別れるって決めたのは、いつまでもオレといたら新しい出会いや未知との出会いが制限されちまうだろ? そうじゃなくてさ、正樹、お前にはお前だけの世界を見て欲しいんだよ。オレが選んだ世界じゃなくて、お前が選んだ世界だ。それを、今度はお前がオレに話すんだ。お前の故郷でオレの話をお前が目を輝かせて聞いたように、オレの目も輝かせるような話ができるようになれ」
 オレは立ち上がって、正樹に近づいた。そして、形のいい頭をくしゃりと撫でてやれれば、正樹は少し拗ねた表情をした。
「お前ならできるよ。あと少しの間、よろしくな」
 窓からはもう、青い水平線が見えるのみだ。微かに聞こえる波の音がオレたちを中部へと運ぶ。オレにとっては懐かしい、正樹にとっては新しい土地へと運ぶ。
「……うす」
 正樹の返事は、まだ少し不満げだった。