あなたの為だけに生きる生き物

 予想通り、オレの処刑は取りやめられ、ユキの家に軟禁される形で落ち着いた。話し合いが行われている間、ユキはずっとオレのことを愛しげに抱きしめていた。柔らかな少女の身体と草木の匂いは確かに心地よかったのだが、通じ合えない生き物とこれから生きていかなければならない不安の方がずっと大きかった。
 案内されたユキの家は木造作りの、小ぢんまりとした家だった。一人で暮らしているらしい。家族は、と聞きかけて黙る。夢見に家族の概念は無い。趣味は、好きな食べ物は、嫌いな食べ物は、好きな物語は、曲を奏でるのは好きか、踊るのは好きか、どんな問いも意味をなさない。ユキにとって意味があるのはオレの存在そのものだ。
「今日からここが君の家だよ。お外には出してあげられないんだけど、必要なものがあったら言ってね! なんでも用意するから!」
 にこにこと喜びに満ちた顔をしながらユキが嬉しそうに言う。家を見渡す限り、必要なものはだいたい揃っているようだった。中部で良く使われる家具や釜なども揃っており、入手元が気になる所ではある。
 しかし、他人の家でいきなり寛いでくれと言われても困る。実に困る。この先どうなるかは分からないが、当分の間オレはここから出られないのだろうから、なるべく心地よく過ごしたいものではあるのだが。
「そうだ。お茶を用意してくれないか。お前が気になってることに答えてやるよ」
「うん、お茶だね分かった!」
 ぱたぱたと長い耳を揺らしながらユキがお茶を用意し始める。テーブルに椅子が一つしか無いため、ベッドの近くに椅子とテーブルを動かしてオレがベッドに腰掛けるべきか椅子に腰掛けるべきかちょっと考えてから椅子に座った。多分ユキはどちらでも気にしないだろう。
 しばらくして、ユキはカップを一つだけ持ってきた。
「はいどうぞ」
「……お前の分は?」
 カップを置いてそのままにこにことこっちを見続けるユキに頭を抱える。ユキはオレがどうして頭を抱えているのか分からないらしく少し慌てていた。とりあえず茶を一口啜ってみれば、想像以上に渋い。
「お前、普段お茶飲まないだろ」
「えっ、どうして分かったの?! もしかして、美味しくなかった?!」
 思わずしかめた顔にユキが涙目になる。多分これは茶葉が相当に酸化しているし、淹れ方も良くないのだろう。間違いなくオレが今まで飲んだお茶の中でワーストワンだ。
「ご、ごめんねごめんね! いつもフリックがお茶淹れてくれるから……」
「フリック?」
 聞き馴れない名に、思わず聞き返す。オレが興味を示したのが嬉しかったのか、先ほどの焦った表情が消え、パッとまた笑顔に戻る。表情がころころと変わって忙しい奴だ。そして、その表情を変える要因のほとんどをオレが占めていると言う事実に憂鬱になる。世の中には相手を支配したい、相手に自分だけを見てもらいたいと考える奴がいるらしいが、生憎とオレは違う。自分だけを見ている、そいつの全てがオレであるという事実にぐっと胸が重くなる。この先オレはこの関係性に耐えきれるだろうか。ユキがオレだけを見て、オレにはユキしかいないこの現実に。
「えっと、フリックはね、僕のつがいになるはずだった夢見なんだけど……あっ安心してね、君が来たからその話は無かったことになったんだよ」
 そんなオレの心中を察することも無く、いや、察することもできないのだろう。夢見にとっては運命の相手に一生を捧げることだけが幸せなのだから。
「フリックはね、人間の社会で暫く生活してたらしいんだけど、奴隷にされかけちゃって命からがらこの集落に逃げてきたんだよ。だから多分、フリックの方がお茶淹れるのも上手だろうし、お料理も上手だと思うからフリックに頼むね」
「いや、いい」
 フリックとやらに興味が無いわけではないが、流石に見知らぬ夢見が作ったものを口に入れる気はない。
「料理とかはオレにやらせてくれないか」
 というか、何かやることが無いと気が狂ってしまいそうだ。気が狂ってしまったら、どうなるのだろう。心が壊れたオレを、ユキはずっと愛でるのだろうか。そんな未来を想像して背筋が凍った。
 オレの申し出にユキは不思議そうな顔をしたが、オレがやりたいのならということで特に反論もなく料理はオレがすると言うことで落ち着いた。お茶の件でオレは悟ったのだ。夢見は、というか少なくともユキは食にも関心を持っていない。食えりゃ良いのだろう。下手したら腹を壊しても死ななきゃ良いとすら思っているかもしれない。夢見が食べるものは人間と大差ないだろうと思っていたが、それも怪しい。オレが知っているのはあくまで人間社会の中の夢見であって、夢見の集落の中で暮らし続けている夢見じゃないことを思い知らされた。
 しかし、考えれば考えるほどに憂鬱になっていく。
「でも、僕は本当に幸せな夢見だ」
 オレ自身の手で、ユキの分も淹れ直したお茶を飲みながら、ぽつりとユキが呟いた。
「僕は、僕が生まれ育った集落の中で、運命の相手と暮らしていけるのだから。これ以上幸せなことは無いと思うし、僕はきっと、ずーっと続いてきた夢見の歴史のなかでも一番幸せな夢見に違いないとさえ思う。けれど、けれどトモは……」
 微笑みながら、流暢に流れ出るユキの幸福な言葉は、オレの名前が出てきた所で途切れる。そうだ。ユキは幸せかもしれないが、オレは幸せじゃない。これからの暮らしはそういう暮らしであることを、正直目の前の少女が理解してるとは思っていなかったので驚いた。少し、困ったような、悲しげなような、そんな表情をこちらに向けながら、それでもユキは一切の迷いも言葉に滲ませずにオレにこう言いきった。
「トモは、きっとそれが幸せじゃないと思うんだ。だからね、どうしても、どうしてもここを出て、ヒトの中で暮らしたいと思ったらそのときはちゃんと言ってね。そうしたら僕は何に換えても。たとえ僕の命に換えても、君をヒトの世界へ逃がしてあげるから。大丈夫。連れてってとは、言わないよ。言いたいけれど、きっと、それは、君の幸せじゃない。君は、きっと優しいヒトだから、もしも本当に逃げたくなったなら僕に選択肢をくれると思うんだ。僕はね、選択肢を貰ってしまったら、君と行くことを選んじゃうから、だから、そのときは僕をどうか置いていってね。その代わり、僕が何としてでも君を逃がしてあげるから。僕の本当の幸せはね、君とずうっと一緒にいることじゃないんだよ。もちろんそれも幸せだけれど、僕の本当の幸せは、そんなことじゃない。それは、君の幸せだ。君と生きれずとも、僕が君の幸せのために死ぬことになっても、それが君の幸せに繋がるなら、それが僕の幸せだ。君の幸せが、僕の生きる意味に、君を夢で見た日からなったんだよ。それを君は迷惑に思うかもしれないね。もしかしたら、不可解に思えるかもしれない。けれど、そうなんだよ。僕が幸せでも、君が幸せじゃないなら、そんな幸せは嘘だ」
 オレの目を真っ直ぐに金と黒のオッドアイが見つめてくる。痛い程に真っ直ぐな瞳だ。純粋で愚直だったあの青年も真っ直ぐな目をしていたが、それ以上にユキの目は真っ直ぐだった。目の前の、金と黒の瞳を持ったこの生き物は心から、命の底からオレのためだけに生きる生き物だ。母のようだと思った。オレの母はオレが育ち、家を出るまでその二十年余りを自分のこどものためだけに生きてくれた。子のようだとも思った。子は母を求める生き物だ。愛情を求める生き物だ。ただただ、親の愛だけを求める生き物だ。オレの幸せだけを求め、オレのためだけに生きる生き物を目の前にして、オレは今までの恐怖と、少しの憐憫の情を憶えた。この、目の前の生き物は、目の前の少女は、ユキは、オレに受け入れてもらえなかったら、どうするのだろうか。それでも、健気にオレの幸せとは何かを一生懸命に考えて、オレの幸せにために生きるのだろうか。オレがユキを否定したとしても、それに傷つきながらも、運命の相手が生きている。そのことだけでも幸福だと思いながら、ユキは、オレのために生きるのか。そう考えたら、無性に泣きたくなった。どうして、夢見などという種族がいるのだろうか。オレにはどうしても彼らの生き方が理解できない。理解できないから受け入れられない。受け入れられなくても、目の前の夢見の少女はオレのために生きることも、死ぬことでさえも幸せだと言い切ってしまうというのに。せめて、ユキが夢見ではなく人として生まれ落ちて、出会うことができたのなら、もう少しオレはユキのことを受け入れてやれたのだろうか。そうしたら、それは幸せなのだろうか。それが、幸せなのだろうか。夢見として生まれたユキの運命の相手であるオレが、夢見として生まれたユキを受け入れられずにいる今よりもユキにとって幸せなのだろうか。それは分からないし、そんなことを考えることは無意味だ。そんな事はありえないのだから。
 そうして、何も言えずに、ユキの真っ直ぐな瞳から逃げるように手に持ったティーカップを睨むオレに、ユキは穏やかにこう訊ねた。
「ねえ、トモ。いま、君が、ここから逃げたいと言ってくれるのなら、すぐには無理だけど、僕はなるべく早く君を逃がしてあげることができるんだ。何も心配することは無いよ。君は、君のことだけを考えてくれれば良い。それが、僕の幸せだ。だから、ねえ、トモ。ううん、言わなくても良い。ただ、僕の問いに頷いてくれればそれで良いよ」
 かちゃ、とティーカップが置かれる音がした。ユキは先ほどからまったく揺らぐことのない目でオレをずぅっと見ている、見ている、見続けている。
「トモ、本当はここに居たくないんでしょ?」
 その問いに、頷くことができたのなら、オレももう少し楽に人生を生きられたのかもしれない。もしかしたら、ユキも今より幸せになれるのかもしれない。それはオレには分からない。けれど、オレはこの夢見の少女を前にして、その問いに頷くだけの勇気は存在しなかった。まだ、幼さの残る、可愛らしい少女だ。オレは夢見の価値観を受け入れられない。ユキのその切実な自己犠牲の精神を受け入れることができない。ただ、ゆうるりとした恐怖の中で怯えながら、彼女の言う本当の幸せを与えることもできずに、お互いが本当は少しの不幸を抱えたまま惰性で生きることしか選べない。もし、ユキの手を借りてここから出て行けたとして、もし、その過程でユキに何かあったなら、オレはきっとその先そのことをずっと負い目に感じたまま生きていくのだろう。それはオレには重すぎる。
 オレは、俯いたまま、黙って首を横に振った。
「……お前が、お前の本当の幸せが、オレの幸せにあるとしても、オレはお前を利用したりしてまでここから出たいとは思えない。けれど、ここに居たいとも思えない」
「……うん」
「だからといって、一緒に出て行こうとも言えない。オレは正直お前が怖い」
「……じゃあ、僕はどうすればいいの? どうしたら、君は幸せになれるの? 僕のことなら本当に気にしなくて良いんだよ? 僕の存在が君を苦しめていると言うのなら、僕は喜んで死んであげるから」
「そうじゃないんだよ!!」
 気がついたら、叫んでいた。そうだ。夢見はそうだ。そうやって命を簡単に投げ出すから嫌なんだ。知らない誰かでさえも死んでほしくないというヒトの感情なんか理解しようともしてくれやしないんだ。生死に関してさえも、夢見の興味は運命の相手に限定されるのだから。
「オレは、お前が怖い。正直今はお前と一生暮らすだなんてまっぴらごめんだって思ってる。けれど、オレのためだけにお前がすべてを投げ出すのも嫌だ。そんなのは、嫌だ」
 ユキは、オレから見ても困惑していた。まあ、そうだろうな。夢見じゃなくてもそんなこと言われたら困惑するよな。けれど、オレは、オレのために生きて、オレのために生きるのはオレだけで良いというオレ自身の心をどうしたって偽れやしない。
「分かり合おう。オレも、お前を頑張って理解するから。お前も、オレを理解してくれ。頼むから」
「だから、トモが本当にしたいことを教えてよ。そうしたら僕はそのためだけに行動するから。言って。遠慮せずに」
 少し強められた語尾に、ユキの本気が伺えるが、そうじゃない。幸せとは何かと尋ねられても、オレにとってはおいそれと答えられるような事じゃないのだ。
「えっとだな、そうじゃなくて、人は夢見と違って複雑なんだ。何が幸せかなんて、多分誰もハッキリとは言えない。色んな幸せがあって、色んな不幸があるんだ。幸せなことが不幸じゃないとは限らない。幸せと不幸が同じことだって、ままある。複雑なんだ。だから、なんというか、そうだな……オレの幸せを思うなら、まずは人を理解してくれないか。お前の幸せを見つけてみてくれないか。お前が一歩だけでも人に近づいてくれたら、多分オレは今、それが一番嬉しい。オレも、一歩でもお前に近づけるように頑張るから。オレは、オレのために生きている。そして、オレのために生きるのはオレだけでいいと思っているんだ。だから、お前もお前のためだけに生きてみてくれないか。その先にオレの幸せがあるのなら、オレはそれを頑張って否定しないようにするから」
「……ごめん、よく分からない」
 絞り出された声は、オレの言っていることを理解できないと言っていたし、オレも何を言っているのか自分でも良く分かっていない。けれど、けれど。
「一緒に生きる努力を一緒にしよう。その先にこの集落を出る選択があるかもしれない。けれど、それは今じゃない。オレのために生きるのはやめてくれ。今は分からなくていい。オレも夢見の生き方を知らない。だから、分かり合おう。分かり合うための努力をしよう。オレは、お前を怖いと思っていても、お前に死んでほしいなんて思ってないんだ。お前のことを、教えてくれ。お前が、ユキが今までどうやって、何を考えて生きてきたのか教えてくれ。ゆっくりで良い。時間はどうせ馬鹿みたいにあるんだからよ」
 戸惑いを隠せない様子のユキはそれでも、一応、頷いた。それは、運命の相手の言うことなら従いたいという夢見の本能かもしれない。けれど、これはオレの勝手な思い込みかもしれないが、その戸惑いこそが、ユキがオレと生きるために憶えなければならない感情の一つだと思う。戸惑って、悩んで、自分で考えて、自分で決定してほしい。その先にオレが居るのはもう良い。我慢する。これはオレの、夢見ともう一度一緒に生きるための努力をするための第一歩だ。手前勝手な話かもしれない。自己中心的な考え方かもしれない。だが、目の前のひたすらにオレのために生きようとする生き物の為に、オレが譲歩できる最初の一歩はこれなんだ。オレは、幼い頃に一度諦めた夢見との共存を、もう一度目指そう。
「とりあえず、今日は何が食べたいか言ってくれ。オレが作ったものなら何でも、は無しな」
 そう言ってやれば、愕然とした顔でユキがオレを見てきた。心から、オレが作ったものなら何でも良いと思っているのだろう。けれど、オレはそれを許さない。ユキが何でも良いから何か一つ食べものの名前を言うまでオレは何も作らないし、食べない。そうやって、少しずつ近づいていけたら良い。その先に、きっと本当の幸せはある。人のオレからしてみれば、絶対の幸せは存在しない。絶対の幸せというのものがあるとして、それが本当の幸せだと、少なくともオレは思いたくない。幸せとはなんだろうと考えながら一生懸命に生きたその先に、本当の幸せはあるものだとオレは思う。それを、ユキに半ば押し付ける形になてしまうのが少し心苦しいが、それはオレも少しずつ、ユキの言う絶対の幸せを学んでいくから許してほしい。ユキと一生を過ごすかどうかは置いておいて、今はユキと暮らすのだから。
 緩やかな絶望の中で、それでも、目の前の少女がオレを愛すそのためだけに生まれてきたと、そう言い切るから、オレはオレなりに少しずつそれに応えよう。緩やかな絶望に殺されるくらいなら、その中で生きてやろう。その先にあるものなら、きっと受け入れられるはずだろうから。その覚悟を、オレはユキの痛い程に真っ直ぐな瞳のおかげで持つことができた。