幸せの話
夢見の集落に軟禁されることになって、オレを夢に見たと言う夢見の少女、ユキと暮らすようになってからもう五日程が過ぎていた。相変わらず、ユキの行動指針はオレを中心に成り立っていて、ユキ自身がオレに何かを望むことは殆どない。それでも、オレがユキの意見を求めれば、何十分と時間をかけた後ではあるが、少しずつ返答を望めるようにはなり、なんとか、これから先暮らしていけそうな気はしてきた。
オレの料理を美味しい美味しいと言いながら一生懸命に頬張る姿は、年相応に見えて、数少ないオレの癒しになりつつある。ユキは、どうやらオレの九つほど年下らしい。夢見の寿命は人のそれとほぼ同じなので、素直にユキはオレと十年近く歳が離れていると思って良いだろう。いつか出会った夢見の研究を手伝っている少年を思い出す。彼とほぼ同い年くらいのこの夢見の少女は、彼よりも少し大人びているように思う。それは、夢見の感情の希薄さがそう思わせるのか、家族という概念が無いばかりに既に自立していることがそう思わせるのか、それとも本当にユキが大人びているのかは分からない。人と夢見を比べること自体がナンセンスな事のような気もする。なんだかんだ言って、オレもこの環境に慣れようとしているのだろう。そうでなければ、順応しなければ、人ならざるもの達の集落で生きるのはあまりに辛い。人の価値観を保ったままではきっと居られない。人と夢見を混同させながら、きっとオレはオレを騙しながら順応していくのだろう。ユキ以外の生き物と関わらない生活は思いの外オレの精神を蝕んでいる気がする。こういう心理状態のことを聞いたことがある。確か、ストックホルム症候群だ。まだ十代も半ばの頃、中部の首都にある学校に通っていた時に心理学の授業でそんな事例をチラッと聞いたことがある。授業を受けていた時には、オレにはまったく関係ないことだと思っていたが、まさかこんな形で経験する羽目になるとは思わなかった。
ユキは、オレと一緒に朝食を食べた後、畑へと出かけていく。夢見の共同管理の畑仕事は女子供の仕事らしい。夢見の男たちは猟りや森の管理をしながら、オレのような迷い人が来ないか見張ったり、あるいは買い出しへ出かけたりもするようだ。買い出しへ行くのは、もう大分歳をとった夢見ばかりで、その理由ももう集落を出ることも無く、万が一人に見つかったとしても集落内での損失が比較的少なくすむからというものである。若い夢見が集落をでる時は、途中の道まで目隠しをされるらしい。それは、後に運命の相手を夢で見て、その運命の相手が人だった場合に、その運命の相手が夢見奴隷確保の為にその夢見に集落の場所を案内させようとしたとしても、できないようにする為らしい。案外、自身の保身をしっかりしているな、というのがオレの感想だったりする。夢見と言うのはもっとこう、ぼうっと生きているように思ったのだ。けれど、夢見の集落内ではきちんと社会的秩序が形成され、自分たちが滅びないような工夫がされていた。だからこそ、夢見の摘発が活発なこの中部で、ここの集落はずっとひっそりと存在することができたのだろう。
ユキが毎日井戸から汲み上げてくる生活水を使いながら、朝食の後片付けをしていると、不意に家のドアが叩かれた。オレが逃げ出さないようにと、簡易的な鍵がつけられたドアが叩かれたのは、当然のことながらこれが初めてだ。毎朝出かける時に申し訳なさそうに鍵を手にとるユキはそのうち鍵をかけることを放棄しそうだ。というか、オレが頼めば多分、すぐにでもユキは鍵をかけるのを止めるだろう。まあ、そんなことは頼まないが。とにかく、叩かれたドアにどうすれば良いのか分からず、手を止めて意味も無くじっとドアを見つめていると、がちゃりと錠が外された音がして、白髪の背の高い男性が入ってきた。
「やあ、はじめまして」
柔らかな微笑みを携えながらオレに話しかけてきたその男は、ぱっと見は若い印象を受けるが、その柔らかな話し方、物腰の柔らかさは年老いた老人のような達観した者のそれに近い。何とも不思議な男の登場に、オレは軽い会釈で答える。
「いきなり入ってしまってすまないね。私の名はフリニカル。君と、ユキの監視を言い渡された夢見さ」
フリニカルと名乗ったその男にオレはユキが唯一話した夢見の存在を思い出す。
「フリニカル……あぁ、ユキが言っていたフリックってのはもしかしてアンタのことか?」
「おや、ユキが私のことを話したのかい? それはそれは……」
その反応から、オレの推測が正しかったことが分かった。確か、フリニカルという夢見は人の社会の中で生きてきた経験があったはずだ。それで、この夢見の妙に人間臭い達観した物腰も納得できた。夢見が人の社会の中で生きるには相応の努力が必要だったはずなのだから。
「ふむ、だとしても一応自己紹介はきちんとしておくべきだろうね。先ほども名乗ったけれど、私はフリニカル。かつて、故郷を捨て人の社会の中で生きることを選んだことのある夢見だ。けれど、危うく奴隷にされかけてしまってね。君と同じようにこの集落に迷い込み、もう二度とこの集落から出ないことを条件に匿ってもらってるんだよ。人の社会の中で生きた経験があるから、他の夢見よりは君の事を理解できるだろうって理由で君の監視をさせてもらうよ……とは言え、君は抵抗する気配も見せないし、生活のサポートが主な仕事になるのだろうけれど」
「そんで確か、ユキの元許嫁だろ? オレの所為で結婚が反故になって申し訳ない」
ユキから話を聞いた際、決められた結婚が無かったことになったという事に少し申し訳ない気がしていたのだけれど、フリニカルは少し笑って気にしていないとだけ答えた。
「夢見の結婚は人と違って、壮大なラブロマンスの先にあるものではなく、集落の中で子の繁栄の為にロジカルに決められるものでからね。ユキはこの集落の生まれの中で一番血が濃い生まれだったから、外から来た私が割り当てられた。それだけの話なんだよ」
「はぁ、なるほどなあ。やっぱり血が濃いと障害を持った子が生まれたりとかすんの……っと、あんまり客人を立たせるもんじゃないな。椅子に座ってくれよ。人のもて成し方でいいんだろ? 茶でも出すから」
「おや、それは有り難い。是非戴こう」
羽織っていたジャケットを、慣れた手つきで壁に掛けながら、フリニカルは優雅に席に座った。ケトルに飲料水を入れ、燻らせておいた火を起こす。流石に数日も暮らせば何処に何があるかは覚えられるし、もうこの家の家事をするのも慣れた。ユキは、家事なんてしなくていいのに、と未だにぼやくが、流石に家事さえせずに日々を浪費するのは辛すぎる。そんなわけで、時間だけはたっぷりとあるくせに掃除くらいしかやることが無い所為でユキの家は塵一つない程の清潔さを保っている。今度、家庭菜園用の種かなんかを調達してもらおうかと考えている。そんなふうにでも、できることを増やしていかないと気が狂ってしまいそうだ。ケトルの口の先から湯気が吹き出した事を確認し、ティーポットにお湯を入れ、二人分の茶を入れてオレはフリニカルが座っている椅子の前にあるテーブルへとそれを置き、オレ自身はベッドへと腰掛けた。
「おや、美味しい」
「ユキが淹れるお茶は壊滅的にマズいからな。茶葉も新しいのに変えてもらったんだよ」
「成る程。道理で」
まるで、人と話してるような感覚に少し心が浮き足立つ。ユキはオレが淹れたお茶を飲むのがもったいないという理由でオレが飲み干し、いい加減片付ける段階にならないと口をつけない。じいっとティーカップを見つめながらニコニコしてる様は、正直気味が悪いし、お茶はなるべく冷めきらないうちに飲んでほしい。冷めきったお茶は、たぶん、不味いと思うのだけれど、ユキは美味しいと言って飲み干す。まあ、ユキが淹れたお茶に比べれば、冷めきってようがなんだろうが、多分美味しいことに変わりはないのだろうけれど。
そんな心情が表情に出てたのか、フリニカルは少し困ったような表情を浮かべた。
「ユキとの生活は、疲れるだろう?」
その問いにオレはどう応えたら良いか少し逡巡してから頷いた。それに、フリニカルは軽く頷いて、まるで出かけたユキ自身を見るかのように、ドアの方を見つめた。
「夢見の、運命の相手に対する執着は凄まじいからね……君も驚いたことだろうね」
「あぁ、いや、夢見にとって運命の相手がどんな存在か、どんなに執着するかは知ってたんだ」
オレの返答にフリニカルが意外だという表情を隠しもせず向けてくる。外では、風が木々や草木を撫でていくざわめきや、穏やかな日差しに歌う鳥の声が響いている。もう五日も外に出ていない身としては非常にそれらが恋しい。オレの故郷も、穏やかなこんな日には、植物のざわめき、鳥たちの歌声の中で、大人たちは畑仕事をし、家畜の世話をし、こどもたちは遊び回っていた。そんな故郷に、一人の夢見がやってきたのはもう、随分と昔の話だ。
「そういや、フリニカルさんは何の動物の特徴を持ってんの?」
「あぁ、私は鳥目なんだ。だから、暗くなると活動できなくてね。ヒトの社会に紛れ込むには具合が良かったけれど、やはり不便な方が大きいかな」
「へえ」
「夢見は、一般に血が濃くなれば濃くなる程動物へと姿形が似ていくと言われているね。私なんかは随分血が薄い方なんだろう。ユキのように目立つ特徴を持ってる夢見は少なくはないけれど、多くもない」
穏やかに話すフリニカルの口調に、オレは出会って間もないにも関わらず妙にフリニカルに好印象を抱いていたのだが、その理由がぼんやりと分かってきた。オレが幼い頃に出会った夢見に少し、似てるのだ。髪色なんかもそうだし、物腰の柔らかさとか、驚いた時にそれを隠さずにこちらに向けてくる様子なんかが、良く似ている。そして、本心はきっと、オレに興味なんて無いんだろうな、と思える所も。
「なるほどねえ……ところでフリニカルさんさあ、ここでゆっくりしていく時間とかってあんの?」
「今日は君とゆっくり話をする為に来たのだから、君が話をしてくれると言うのならば、拝聴させていただくよ。正直、門前払いを食らう覚悟もしてたから、逆に有り難い。それから、私のことはフリニカルと呼び捨ててくれて構わないよ。長かったら、ユキのようにフリックと呼んでくれても構わない」
「気が向いたらそう呼ばせてもらうよ。それよりさ、時間があるなら少し昔話に付き合ってもらえないか。フリニカルさんと話してたら少し話したくなった。一輪の花を愛した夢見と、そんな夢見を好きになった幼い少女の話さ」
少し長い話になってしまうだろうから、お茶のおかわりは用意しておくかと訊ねれば、フリニカルは軽く首を横に振った。オレは、一口だけお茶を啜って口内を潤してから、思考を、あの幼い日に見た黄昏の光景へと遡らせた。
オレの故郷に彼がやってきたのは、春の訪れがようやく感じられるようになってきた季節の、美しい黄昏時のことだった。まだ、寒さが残る時期の黄昏の空は、木々のシルエットに落ちる明るい青から赤への色の変移が美しく、オレは夕食に呼ばれるまで村を見下ろせる小高い丘の上からよくその色の変移を眺めていた。その日も、特に何をするでも無く作物が飢えられる前の、土がまだ剥き出しになった畑を見下ろしながらぼうっと日が落ちるのを見つめていた。そんなオレに声をかけてきたのが、彼だった。
「やあ、お嬢さん。今晩私を泊めてくれそうな家を知ってたりはしないかい?」
夢見に多く見られる白髪を短く切りそろえた彼は、日が落ちる直前の、一番透き通って痛々しいくらいに何処までも純粋な蒼の色を瞳に宿らせた、背の高い若い男だった。彼は毛糸で編まれた帽子をかぶっていて、くたびれたコートを着ていた。見るからに長旅をしてきたこの夢見を、当時のオレはすっかり人間だと思い、気の毒に思ったので自分の家へ招くことにした。
いきなり知らない男を連れてきた幼い娘に、オレの両親は酷く驚いていたが、彼が馬小屋でも良いので一晩屋根の下で寝かせてほしいと頭を下げると、元々の人の良さもあって、家に上げることはできないが、納屋に藁を敷き食事を出してあげようという話になった。オレは、どうせなら家にあげてベッドで寝かせてあげれば良いのにと思ったが、残念ながらオレの実家には当時、余分なベッドなど無かったのだから仕方の無い話なのかもしれない。オレの両親の申し出に彼はいたく感謝して何度も頭を下げた。少ない懐から幾ばくかのお金を差し出そうとさえしたが、両親はそれを断った。部屋を貸すのならともかく、納屋の隅に藁を敷いて寝ても良いというだけの話でお金はとれないと言った。両親のその言葉に彼がほっと安堵の表情をしたことが妙に印象的だった。もう、何年も昔の話だから、印象的な髪と瞳以外の細かな顔の特徴は正直憶えていないが、優しそうな、物腰の柔らかそうな青年だったことはぼんやりと憶えている。その日は、両親にだだをこねて、藁を敷くのを手伝い、その夢見と共に食事をとり、一緒に寝た。彼が何処から来て、何をしにここに来て、どこへ行くのか。何を見、何を感じ、何を知ったのか。そんなことをひっきりなしに訊ねたような気がする。彼は、その質問の一つ一つに曖昧な返事を返した。恐らく、オレの質問の返答を持っていなかったのだろう。ただ、どうして旅をしているのかと言う問いにだけははっきりと答えてくれた。
「運命の相手を、探しているんだよ」
その答えをいまいち理解できずに、首を傾げるオレに、彼はかぶっていた帽子を取ってオレに彼が何者なのかを教えてくれた。帽子によって隠されていたのは、小さなネズミの耳だった。オレはそれに驚いて、声もでないままその耳を凝視してしまった。そんなオレに彼は人差し指を口元に当てて、内緒だよと微笑んだ。それから彼は、夢見とはどういう存在なのかということから、自分にとって運命の相手がどういう存在なのか、運命の相手に会えることをどれだけ楽しみにしているか、そんなことをオレが圧倒してしまうくらい饒舌に語ってみせた。 次の日の朝、オレ達はオレの母親に起こされた。やっぱり朝食を彼と一緒に納屋でとってからオレは一度着替えに家に戻って、彼に村を案内した。ここでは、牛を飼っている、こっちは羊、ここは馬、あっちの方の畑では、これから稲の栽培が始まることなどを説明しながら、村の中をゆっくりと見て回った。畑では、作物の栽培を始める準備として、冬の間に風で運ばれてきた石や木の枝を取り除いたり、雑草を抜いたりというような作業をしていた。不意に、彼が目を向けた先には、今まさに引っこ抜かれようとしている芽があった。
「あぁっ! 待って! 待って下さい!!」
彼は、一目散にそちらに駆け寄るとその芽を包み込むように伏せた。その芽を抜こうとしてた人も、その周りで作業していた人も、彼の切羽詰まったような叫びに一斉にこちらに目を向けた。
「な、なんだ兄ちゃん?! 急に飛び出してきたりして……」
「あぁ、すみませんすみません! けれど、どうか、どうかこの芽を抜くのは勘弁して下さい! この芽は、この子は私の運命の相手なのです!」
そして、その場で地面に頭をつけ、この芽を抜かないように懇願しはじめた彼を見て、しん、と村中が凍り付いた。オレは、あっけにとられて、ただただぼうっとその光景を見ているだけだった。
「いきなりこんなことを申し上げてすみません。あなた様は、夢見をご存知でしょうか? 私は、その夢見という生き物なのですが、私たち夢見の、ほんの一握りの夢見は、運命の相手を夢に見ます。そして、その存在に尽くし、共に生きることをこそ至上の喜びと致します。そして、あなた様が今まさに摘み取ろうとしたこの芽こそ、私の運命の相手なのです」
そういって、彼が帽子を取った瞬間、凍り付いた村が一斉に動いた。ざわっと言葉にならない声が漏れ出て、周りに居る人々と顔を突き合わせる。けれど彼はそんな村の様子を気にした様子も無く、その畑の主人である男に縋り付きながら、どうかその芽を摘まないように懇願し続けた。その必死さに、畑の主人も参ったのか根ごとどこか別の場所へ移して育てることを提案した。
「あぁっ! その手がありましたか! ありがとうございます、ありがとうございます! さらに不躾な頼み事をしてしまうことをどうか許して下さい。私は野宿で構いません。あなた様の仕事を手伝いましょう。その傍ら、この子を育むことを許していただければと思います」
結局、彼の勢いに押されて、その畑の主人は彼を労働力として迎え入れることにした。突然の頼みだったにもかかわらず、畑の主人は納屋の窓際の一角を彼の為に掃除し、簡単なベッドと机とたんすを用意してやった。窓の傍には、鉢植えに植えられた彼の運命の相手があった。彼はこの話が決まり、それはもう丁寧にその芽を鉢植えに移し替えると、オレにも感謝の言葉を述べた。
「あぁ、ありがとうお嬢さん。あなたのおかげで私は愛しい運命の相手の窮地を救うことができたばかりか、この子のこれからに尽くすことができる!」
「その芽が、お兄さんの運命の相手なの?」
「そうだよ」
「どうしてそれが分かるの?」
「私の、運命の相手だからさ」
そのときのオレには、彼の言っていることがよく分からなくて、ただ、オレのおかげで彼が喜んでいるということが幼心に単純に嬉しかったことだけを憶えている。
村の何人かは夢見を手に入れた者は必ず成功するというような伝説を知っていて、夢見の受け入れには一悶着あったようだが、奴隷の一人もいないような田舎の村だったから、人とほぼ同じ姿をし、意志の疎通ができる存在を、人ならざる者として扱うのには抵抗があったようで、彼は一カ月もすれば村に馴染んだ。それは彼が黙々と誰よりも真面目に働いたおかげでもあるだろう。朝は誰よりも早く起きて、家畜の世話をする。そして朝食を食べたなら畑に出向き、作物の世話をして夕方からは付きっきりで彼の運命の相手である名も無き植物を飽くことなく愛でていた。オレは、そんな彼が妙に気になって、よく彼の元へ出かけた。彼はオレを邪険にこそしなかったが、別段オレを気にかけてくれることもなかった。何度オレが名前を名乗ろうと、彼はオレをお嬢さんと呼んだ。社交辞令のような笑みを向け、当たり障りのない会話をし、黄昏時には彼の語りかけにも、彼の愛にも答えない無口な運命の相手の元へと帰る。オレはそれが妙に気にくわなかった。村の人々は、名も無い雑草に傾倒し、村の人と必要以上に関わろうとしない、無口で真面目な青年を、変わったやつだと噂した。一度、いつものように黄昏時の空を眺めに丘へ行く途中で、運命の相手に微笑みかける彼を見かけたことがある。美しい笑顔だった。オレには一度だって向けてくれることのない笑顔だ。社交辞令のようなつまらないそれではない。心から愛おしいものを見る者の優しい愛しげな笑みだ。それに嫉妬したオレは、多分その夢見が初恋だったのだろう。なんとも報われない初恋だ。
それでも、一度だけ忘れられない思い出がある。確かアレは、秋も更けた頃。もう、彼がきて半年が過ぎた頃だ。朝に弱いオレが珍しく夜明け前に目を覚まして、折角だから朝一番の冷たい美味しい水でも飲みに行こうと、家畜の世話のために既に起きていた両親に一言告げてから冷たい水が湧き出る場所へと向かった日のことだ。その場所は村の飲料水として使われていたから、道も舗装されていて、夜明け前の暗さであっても子供が一人で行くのに危険はなかった。無事にごくごくと美味しい朝一番の冷たい水を飲んで、ついでに両親に頼まれた家族の分もその水を汲んだ帰りだった。日が昇り初めて、うっすらと辺りが薄く赤く照らされ始めていたその中で、夏もかぶり続けたおかげでもうすっかりボロボロになってしまった毛糸の帽子を被った彼が、水を汲みにやってきた。
「お兄さん、おはよう。相変わらず早いね」
いつも通り素っ気ない挨拶をばかり返されることを半ば覚悟しながら、それでも、少しでも、昨日より親しげに話しかけてくれないかなあと期待を抱きながらオレは彼へと挨拶した。
「やあ、おはようお嬢さん」
そうして、オレの予想通り返された素っ気ない返事の、その後に続けられた言葉と、オレに向けられた笑顔に、おそらく今もオレは縛り付けられてる。
「お嬢さんの髪は、本当に赤いから夕焼けよりも朝焼けに照らされた方が映えるね」
そうやって彼は、彼の愛しいものにいつも向けるような笑みを向けてきたから、オレはついポカンとして、ろくに返事もできないまま湧き水の湧く場所へと向かう彼の後ろ姿を見送った。花がほころぶような心のこもったその笑顔はまるで、人間のそれに似ていて、オレは愚かにも夢見は人と変わらない生き物であると勘違いした。
それがただの勘違いであったと思い知らされたのは、それからしばらく経った、冬の初めのことだった。彼が愛情を込めて育て続けたあの芽は、夏、秋、と季節を過ごし、小さな蕾をいくつも付け、夏頃から花を咲かし続けていた。蕾を付け始めた頃には、彼は朝夕を問わず、あぁ、お前が花を咲かすのが楽しみだと、そればかりだったので、オレも村の人も呆れ半分、ここまでくれば大したもんだという尊敬半分の気持ちで、それでもやっぱりその花が咲くのを楽しみにした。そして、ついに蕾の一つが綻んだ日には、彼は筆舌に尽くしがたいほどに狂喜乱舞した。村の一人一人に、花の素晴らしさ、可愛らしさ、いじらしさ……なんてものを説いて回った。オレたちは彼のその花に対する終着をもう思う存分味わっていたので、苦笑しつつも、そんな彼を邪険にすることもなく、良かったねぇと祝福した。しかし、冬が近づくにつれ、徐々に元気がなくなっていく花に、彼もだんだんと暗くなっていった。薄紫色の小さな五枚の花びらを持つその花は、冬を越す株もあるが、殆どが冬の寒さに耐えきれず枯れる運命にあることを、オレは彼の面倒を見ていたあの畑の主人から、彼と一緒に聞いた。その話を聞いたときの彼はぽろぽろと涙を静かに流しながら、もうだいぶ花の少なくなったその鉢植えを抱きしめていた。何がそんなに悲しいのか、オレには理解できなかった。元はといえばそこらへんに生えていた雑草なのだ、こんなに大事にしてもらって十分ではないかと当時のオレはそんな彼を見て思ったものだ。けれど、そんなオレの思いに反して彼はどんどん落ち込んでいった。村の人々も見かねて、なんとか彼に元気を出してもらおうと、越冬前にささやかな宴を開く話が持ち上がった。驚かしてやろうと彼に知られないように、こっそり進められた準備が整い、彼に一番なついていたオレが彼を呼んでくるという大役を仰せつかった。けれど、肝心の彼がどうしたって見つからない。畑にも、家畜たちの小屋にも、もちろん、彼が住んでいた部屋にも。綺麗さっぱりと不自然に片付けられた部屋に、空っぽの鉢植だけがぽつんと置いてあるのを見て、オレは胸騒ぎに飛び出した。無意識のうちに向かっていたのは、始めて彼と出合った、あの、小高い丘だ。あの丘の近くには切り立った崖がある。それはただの直感だったが、オレは迷うことなくその崖への道をおもいきり走った。
「おや、いいところに」
オレの直感どおり、彼はそこにいた。大事そうに、何かを抱えている。
「どこに行くの?」
始めて出合ったときの様な、美しい色の変移を見せる空に、穏やかな微笑を浮かべた彼。懐かしいけれど、嫌な予感がした。
「あの花は、もう長くないと知って私の手で終わらせたんだ」
オレの問いには答えず、ただ穏やかな顔で彼はそう告げた。
「これは私のエゴかもしれないね。けれど、私の美しく可憐な運命の相手が無様に枯れてしまうことがどうしたって許せなかったんだ」
何を馬鹿なことを、と当時のオレでさえ思った。今も思う。摘まれそうになったその花を掬い、鉢植えに植えて丁寧に世話をしたのは全て彼のエゴだと、オレは思う。だから、枯れる前にその花の命を終わらそうが、オレとしてはそれを、その行為だけをエゴと呼ぶにはいささか遅すぎたと思った。けれど、運命の相手の、最善を、幸福を、夢見た夢見にとっては違うのだろう。意思疎通のできない植物相手に、最後を選ばせてやることはできない。自分が考えた最善を尽くすしかない。彼は、自然の摂理に任せず、自らの意思でその花の生を終わらせた自身の判断をエゴと言ったのだろう。
彼は微笑みながら、オレに歩み寄った。オレは彼を呼びに来たというのに少したじろいだ。それから、彼はそっとオレに手のひら大の塊を握らせた。
「一緒に持って行こうかとも思ったのだけど、それこそ私のエゴのような気がしてね。お嬢さん、あなたが持っていてはくれないか」
塊は、溶けたガラスを固めたものだった。中には一輪、彼が愛し育てた花が永遠の時間に閉じこめられている。
「押し花にしたものを閉じこめたから、随分持つはずだよ。できれば、大切にしてほしい。頼めるかな」
その問いに思わずこくりと頷くと彼は、さっぱりとした顔でオレに別れを告げた。
「その子のことをどうか頼んだよ、トモ」
出会ってから初めて呼ばれた名前に、ガラスに閉じこめた花から視線をぱっと彼に戻せば、彼は崖から飛び降りていた。それから先はあまり覚えていないのだけれど、とにかく、最期の最期に名前を呼ぶのは狡いとそればかりが頭の中にあったような気がする。最期の彼のさっぱりとした顔と、朝焼けの中でオレに笑いかけてくれた笑顔と、決して分かり合え無かった交流と、分かり合え無いまま、エゴを貫き通して死んだ彼の最期の後ろ姿が今でも頭を過ぎる。何度、彼に託されたこの花の亡骸を捨ててやろうと思ったことか。けれど、捨てようとする度に、頼んだよトモという彼の最期の言葉がどこかから聞こえてきて、結局捨てられないまま、旅の最後まで持ってきてしまった。この集落へと迷い込んで、荷物を全て取り上げられたときも、この花の亡骸だけは勘弁してもらった。これは、彼との約束で、分かり合えない生き物がこの世にいるというオレへの戒めで、思い出だ。
「もしかしたら、最期のあの時止められたかもしれない。そもそも、オレが村を案内なんてしなければ、彼は花を見つけることなく今も生きていたかもしれない。そう思うと、オレがあの夢見を殺したも同然のような気がするんだ。もちろん、これは人の、オレの勝手な価値観なんだけどよ」
話し終えてみれば、口の中がカラカラだった。残ったカップの中身を流し込んでみれば、冷めていて不味かった。花の亡骸には革紐を通して、今も首にぶら下げていたから、無意識のうちにそれを触りながらオレは話していた。
暫くの沈黙が沈んで、それから、フリニカルはまるで独り言を呟くかのようなトーンで話し始めた。
「その彼と同じ夢見である私にしてみれば、トモ、君が彼を村に留め、彼の運命の相手に出会わせて、そして、彼の幸せな最期を看取ってくれて、とても、嬉しく思う」
「あの夢見は、本当に幸せだったと思うのか」
「あぁ。断言しよう」
「花が枯れる絶望に身をゆだねながら崖から身を投げた彼が! なんで幸せだって言えるんだ! 生きていたら、そのまま生きていたらまた別の幸せがあったかもしれないのに? 永遠の時に閉じこめられた花とともになんで生きてくれなかったんだ……なんで、村の人もみんな彼のことを村の一員だって思ってたのに、死んじゃうんだ。死んでなんて欲しくなかったのに。そんなことで死んでしまうって知ってたら、どうしたって止めたのに。止めたのに。なんで、それが幸せだって言い切れるんだ」
フリニカルはオレの言葉に、少し逡巡してから、そうっと答えた。
「運命の相手と永遠に出会えないまま、ただ永い生を生きるのはね、私たち夢見にとっては苦痛でしかないんだよ。だから、一つ目の幸せは、君が彼を彼の運命の相手に出会わせたこと。それだけで、私たちにとっては、人の巨万の富よりも価値のあることだ」
悟らせるかのような声は、どこか懐かしい。あぁそうだ。彼も、彼の運命の相手の事以外ではこんな風に感情の読みとれない、どこか遠い話し方をしていた。
「次に、君たちが彼を、そして彼の生き方を受け入れてくれたこと。彼は何にも煩うことなく、運命の相手に尽くすことが出来た。これも、美食家が血相を変えるような世界中の豪華絢爛な珍味や料理の数々を食す事よりも、私たちにとっては大層幸せな事だ」
そうだろうか。本当にそうだろうか。オレには分からない。ただ、彼は日々を本当に幸せそうに過ごしていたんだ。だから、その幸せがずっと続けばいいと思ったし、花が枯れてもまた新しい幸せを見つければいいと思った。
「そして最後に、君が彼の最期を看取ってくれたこと。私たち夢見にとって、運命の相手がいなくなった世界を生きることは、どんな辱めや拷問を受けることよりも、植物をも枯らす灼熱の中で一滴の水も与えられないことよりも、すべての生き物が凍り付くような極寒の静寂の中で何一つ着るものを与えられないことよりも、なによりも、辛く苦しいことなんだ。彼は、自分の手で運命の相手の生を終わらせて、もう、何も思い残すことは無かったのだろうね。その上、何よりも大切な自分の運命の相手が、確かに存在した証を、君に託すことが出来たのだから彼は間違いなく私の知る中で一番幸せな夢見のはずだよ。それこそ、ユキよりもね」
彼は、幸せな夢見だったのだろうか。そうなのだろうか。夢見であるフリニカルが言うのだからそうなのだろうか。そうであったのなら、少しだけ報われた気がした。
「彼が本当に幸せな夢見だったのなら、きっと彼が去った後、君の村は栄えたはずだよ」
「あぁ。彼が死んだ次の年から麦は毎年豊作で、穂はどの村の麦より大きく重く、香りは豊かで、色はまっさらな良質のものが穫れるようになった。家畜たちは病気をすることもなく、たくさんの子を産み、やっぱり素晴らしい乳や毛や卵をオレたちにくれた。村はとても裕福になったよ。おかげでオレは首都の学校に通えたし、お金に困ることなく旅をしてこれたのだから。だけど、それが彼の置きみやげだとオレたちだって気づいたけれど、それを心から喜んだやつは居なかったよ。オレも、誰も、彼を喪った悲しみの方が大きかった。今も、収穫祭の時は彼への感謝の気持ちを告げる歌で始まって、彼への鎮魂歌で終わる。そのときはみんな一様に悲しい顔をするし、オレもやっぱり悲しい。変わり者の、余所から来た村の一員を、みんな好いていたんだ。良質で撓わに実る麦も、病気知らずの家畜も、嬉しくないかと聞かれれば、それは確かに嬉しい。けれど、オレ個人としてはそんなものよりも、彼に生きていて欲しかった」
生きていて欲しかったと、ぽつりと呟くように出た言葉は今でも本心だ。オレや村の為に生きてくれなかった彼が少しだけ、恨めしい。フリニカルは、少し、不可解そうな顔をしながら、またオレに尋ねる。
「その生が、彼にとって不幸極まりないことだとしても?」
「彼が最後に自分のエゴに生きたように、オレのエゴを押し通せたのなら、きっと」
「愛する者が不幸に生きることが、君にとっての本当の幸せなのかい?」
「いや、それは違う。愛する者と共に幸せであることが本当の幸せの一つだと思う」
「けれど、君は、彼の生を願っただろう?」
少しの問答の、その問いに、夢見の幸福論とオレのそれがまったく異なる者であることを改めて思い知らされる。幸せは、一つじゃない。
「大切な存在が死んだらそれは悲しいけれど、それを乗り越えた先に違う幸せがあるとは考えられないのか」
「私たち夢見の幸せは、運命の相手に尽くし、運命の相手の為に死ぬことだからね」
その答えに、ここに来てからオレがずっと考えていたことを、逆に訊ねてみた。
「尽くされることも、死なれることも勘弁してほしいってその運命の相手に拒絶されたらどうするんだ」
そうすると、フリニカルは少し目を伏せがちにしながら、それでも変わらず穏やかな様子で答える。
「それは、もうそのまま惰性で生きるしかないなあ」
「それは、幸せなのか」
「他の、夢を見ない夢見に比べたら、それでも幸せだろうね」
「本当に? 本当に、そんなのが幸せなのか」
「ヒトには、理解できないのかもしれないね」
そうやって出された結論に、あぁ、確かに理解できないと思った。大切な人のために生きることも死ぬことも否定されたら、オレは辛い。オレは辛いから、ユキを否定することが出来ない。けれど、オレのために生きることも死ぬことも否定しながら、せめて少しでも一緒にいる努力をしようと持ちかけるオレは、ユキを不幸にしてるのではないだろうか。
「ユキのことを案じてくれるのかい」
フリニカルが、そんなオレの表情を読みとったのか、また、オレに語りかけてきた。ユキのことを案じるのはもう仕方が無かった。哀れなあの生き物を放ってはおけない。
「オレのために生きると断言する生き物を、どうにも、放っては置けないさ」
「私はね、ユキの運命の相手が君で良かったと本当に思っているんだよ。おそらく、この集落の夢見みんなが思ってるはずだ。君は、君が思うよりずっと優しい人だ。だからこそ、ユキも、私も、この集落の夢見も君をここに閉じこめることを仕方ないとは言え、本当に申し訳なく思っているんだよ。けれど、君がユキを邪険にしないでくれるから、ユキはやっぱり本当に幸せだと思うし、できれば私は君にも幸せであって欲しい」
「オレの、ここでの幸せってあるのか?」
「すまないが、私はどうしたって夢見だからね。君の幸せがなんなのか、そんなものは到底理解できやしないのだよ」
穏やかな日差しの中で語られた幸福論のようなそれは、結局の所終着点を持たずして迷子のままどこかへ行ってしまった。
「フリニカルさんは、どうして一度夢見の集落を出たんだ?」
「私たち夢見の幸福論に疑問を憶えたからなんだけれどね。結局、私はヒトの言う幸せも理解できなかったよ。不可解なヒトの幸福論の中で得たのは、私は所詮夢見に過ぎず、運命の相手を夢に見ることが無ければ、ただ、この虚無的な気持ちを抱きながら惰性で生きるしか無いという、どうしようもない事実だけだったよ」
オレはただ、運命の相手が傍らに居るだけで、それを拒否されないだけで幸せだというこの生き物を心底可哀想に思うのだ。その運命の相手が居なくなったなら、生きる理由が無くなってしまう生き物に、運命の相手を、夢で見ることがなければそもそも幸せになれない生き物に、オレは心から同情した。
「私からすれば、夢を見る夢見って言うのは少し違うんだ。そう言う意味ではユキも、何故ここに留まっているか分からなかったね。そして、君がここに来て、ユキが君を夢で見て。私は恐らくもう運命の相手を夢で見ることの無い夢見だけれど、ユキと君を見ていると少しだけだが、慰められる思いがするよ」
そして、それでもその生き物の幸せに寄り添うことができない、オレという生き物の難しさを痛感する。夢見のように絶対の幸せを手に入れれば、幸せになれるのだろうか。違う気がする。たぶん、オレも、オレが旅で出会った人々も、それぞれにそれぞれの幸せがあって、それを探しながら生きていたはずだ。思いがけない出会い、思いがけない偶然の中に幸せを見いだし、ときに、当たり前の中に幸せを見つけ、悲しみや苦しみ、挫折を乗り越えた先に幸せを掴むのだろう。幸せとはいったい何なのだろうか。
かちゃりとカップをおいてフリニカルが立ち上がる。
「美味しいお茶をありがとう。私でよければまた話し相手になるし、何かあれば相談してほしい」
「あぁ。是非頼むよ」
そうオレが答えて、フリニカルがドアをくぐって暫く、幸せを望む者が住む緩やかな絶望の渦巻く空間に、がちゃりと錠のかけられた音がした。
オレの料理を美味しい美味しいと言いながら一生懸命に頬張る姿は、年相応に見えて、数少ないオレの癒しになりつつある。ユキは、どうやらオレの九つほど年下らしい。夢見の寿命は人のそれとほぼ同じなので、素直にユキはオレと十年近く歳が離れていると思って良いだろう。いつか出会った夢見の研究を手伝っている少年を思い出す。彼とほぼ同い年くらいのこの夢見の少女は、彼よりも少し大人びているように思う。それは、夢見の感情の希薄さがそう思わせるのか、家族という概念が無いばかりに既に自立していることがそう思わせるのか、それとも本当にユキが大人びているのかは分からない。人と夢見を比べること自体がナンセンスな事のような気もする。なんだかんだ言って、オレもこの環境に慣れようとしているのだろう。そうでなければ、順応しなければ、人ならざるもの達の集落で生きるのはあまりに辛い。人の価値観を保ったままではきっと居られない。人と夢見を混同させながら、きっとオレはオレを騙しながら順応していくのだろう。ユキ以外の生き物と関わらない生活は思いの外オレの精神を蝕んでいる気がする。こういう心理状態のことを聞いたことがある。確か、ストックホルム症候群だ。まだ十代も半ばの頃、中部の首都にある学校に通っていた時に心理学の授業でそんな事例をチラッと聞いたことがある。授業を受けていた時には、オレにはまったく関係ないことだと思っていたが、まさかこんな形で経験する羽目になるとは思わなかった。
ユキは、オレと一緒に朝食を食べた後、畑へと出かけていく。夢見の共同管理の畑仕事は女子供の仕事らしい。夢見の男たちは猟りや森の管理をしながら、オレのような迷い人が来ないか見張ったり、あるいは買い出しへ出かけたりもするようだ。買い出しへ行くのは、もう大分歳をとった夢見ばかりで、その理由ももう集落を出ることも無く、万が一人に見つかったとしても集落内での損失が比較的少なくすむからというものである。若い夢見が集落をでる時は、途中の道まで目隠しをされるらしい。それは、後に運命の相手を夢で見て、その運命の相手が人だった場合に、その運命の相手が夢見奴隷確保の為にその夢見に集落の場所を案内させようとしたとしても、できないようにする為らしい。案外、自身の保身をしっかりしているな、というのがオレの感想だったりする。夢見と言うのはもっとこう、ぼうっと生きているように思ったのだ。けれど、夢見の集落内ではきちんと社会的秩序が形成され、自分たちが滅びないような工夫がされていた。だからこそ、夢見の摘発が活発なこの中部で、ここの集落はずっとひっそりと存在することができたのだろう。
ユキが毎日井戸から汲み上げてくる生活水を使いながら、朝食の後片付けをしていると、不意に家のドアが叩かれた。オレが逃げ出さないようにと、簡易的な鍵がつけられたドアが叩かれたのは、当然のことながらこれが初めてだ。毎朝出かける時に申し訳なさそうに鍵を手にとるユキはそのうち鍵をかけることを放棄しそうだ。というか、オレが頼めば多分、すぐにでもユキは鍵をかけるのを止めるだろう。まあ、そんなことは頼まないが。とにかく、叩かれたドアにどうすれば良いのか分からず、手を止めて意味も無くじっとドアを見つめていると、がちゃりと錠が外された音がして、白髪の背の高い男性が入ってきた。
「やあ、はじめまして」
柔らかな微笑みを携えながらオレに話しかけてきたその男は、ぱっと見は若い印象を受けるが、その柔らかな話し方、物腰の柔らかさは年老いた老人のような達観した者のそれに近い。何とも不思議な男の登場に、オレは軽い会釈で答える。
「いきなり入ってしまってすまないね。私の名はフリニカル。君と、ユキの監視を言い渡された夢見さ」
フリニカルと名乗ったその男にオレはユキが唯一話した夢見の存在を思い出す。
「フリニカル……あぁ、ユキが言っていたフリックってのはもしかしてアンタのことか?」
「おや、ユキが私のことを話したのかい? それはそれは……」
その反応から、オレの推測が正しかったことが分かった。確か、フリニカルという夢見は人の社会の中で生きてきた経験があったはずだ。それで、この夢見の妙に人間臭い達観した物腰も納得できた。夢見が人の社会の中で生きるには相応の努力が必要だったはずなのだから。
「ふむ、だとしても一応自己紹介はきちんとしておくべきだろうね。先ほども名乗ったけれど、私はフリニカル。かつて、故郷を捨て人の社会の中で生きることを選んだことのある夢見だ。けれど、危うく奴隷にされかけてしまってね。君と同じようにこの集落に迷い込み、もう二度とこの集落から出ないことを条件に匿ってもらってるんだよ。人の社会の中で生きた経験があるから、他の夢見よりは君の事を理解できるだろうって理由で君の監視をさせてもらうよ……とは言え、君は抵抗する気配も見せないし、生活のサポートが主な仕事になるのだろうけれど」
「そんで確か、ユキの元許嫁だろ? オレの所為で結婚が反故になって申し訳ない」
ユキから話を聞いた際、決められた結婚が無かったことになったという事に少し申し訳ない気がしていたのだけれど、フリニカルは少し笑って気にしていないとだけ答えた。
「夢見の結婚は人と違って、壮大なラブロマンスの先にあるものではなく、集落の中で子の繁栄の為にロジカルに決められるものでからね。ユキはこの集落の生まれの中で一番血が濃い生まれだったから、外から来た私が割り当てられた。それだけの話なんだよ」
「はぁ、なるほどなあ。やっぱり血が濃いと障害を持った子が生まれたりとかすんの……っと、あんまり客人を立たせるもんじゃないな。椅子に座ってくれよ。人のもて成し方でいいんだろ? 茶でも出すから」
「おや、それは有り難い。是非戴こう」
羽織っていたジャケットを、慣れた手つきで壁に掛けながら、フリニカルは優雅に席に座った。ケトルに飲料水を入れ、燻らせておいた火を起こす。流石に数日も暮らせば何処に何があるかは覚えられるし、もうこの家の家事をするのも慣れた。ユキは、家事なんてしなくていいのに、と未だにぼやくが、流石に家事さえせずに日々を浪費するのは辛すぎる。そんなわけで、時間だけはたっぷりとあるくせに掃除くらいしかやることが無い所為でユキの家は塵一つない程の清潔さを保っている。今度、家庭菜園用の種かなんかを調達してもらおうかと考えている。そんなふうにでも、できることを増やしていかないと気が狂ってしまいそうだ。ケトルの口の先から湯気が吹き出した事を確認し、ティーポットにお湯を入れ、二人分の茶を入れてオレはフリニカルが座っている椅子の前にあるテーブルへとそれを置き、オレ自身はベッドへと腰掛けた。
「おや、美味しい」
「ユキが淹れるお茶は壊滅的にマズいからな。茶葉も新しいのに変えてもらったんだよ」
「成る程。道理で」
まるで、人と話してるような感覚に少し心が浮き足立つ。ユキはオレが淹れたお茶を飲むのがもったいないという理由でオレが飲み干し、いい加減片付ける段階にならないと口をつけない。じいっとティーカップを見つめながらニコニコしてる様は、正直気味が悪いし、お茶はなるべく冷めきらないうちに飲んでほしい。冷めきったお茶は、たぶん、不味いと思うのだけれど、ユキは美味しいと言って飲み干す。まあ、ユキが淹れたお茶に比べれば、冷めきってようがなんだろうが、多分美味しいことに変わりはないのだろうけれど。
そんな心情が表情に出てたのか、フリニカルは少し困ったような表情を浮かべた。
「ユキとの生活は、疲れるだろう?」
その問いにオレはどう応えたら良いか少し逡巡してから頷いた。それに、フリニカルは軽く頷いて、まるで出かけたユキ自身を見るかのように、ドアの方を見つめた。
「夢見の、運命の相手に対する執着は凄まじいからね……君も驚いたことだろうね」
「あぁ、いや、夢見にとって運命の相手がどんな存在か、どんなに執着するかは知ってたんだ」
オレの返答にフリニカルが意外だという表情を隠しもせず向けてくる。外では、風が木々や草木を撫でていくざわめきや、穏やかな日差しに歌う鳥の声が響いている。もう五日も外に出ていない身としては非常にそれらが恋しい。オレの故郷も、穏やかなこんな日には、植物のざわめき、鳥たちの歌声の中で、大人たちは畑仕事をし、家畜の世話をし、こどもたちは遊び回っていた。そんな故郷に、一人の夢見がやってきたのはもう、随分と昔の話だ。
「そういや、フリニカルさんは何の動物の特徴を持ってんの?」
「あぁ、私は鳥目なんだ。だから、暗くなると活動できなくてね。ヒトの社会に紛れ込むには具合が良かったけれど、やはり不便な方が大きいかな」
「へえ」
「夢見は、一般に血が濃くなれば濃くなる程動物へと姿形が似ていくと言われているね。私なんかは随分血が薄い方なんだろう。ユキのように目立つ特徴を持ってる夢見は少なくはないけれど、多くもない」
穏やかに話すフリニカルの口調に、オレは出会って間もないにも関わらず妙にフリニカルに好印象を抱いていたのだが、その理由がぼんやりと分かってきた。オレが幼い頃に出会った夢見に少し、似てるのだ。髪色なんかもそうだし、物腰の柔らかさとか、驚いた時にそれを隠さずにこちらに向けてくる様子なんかが、良く似ている。そして、本心はきっと、オレに興味なんて無いんだろうな、と思える所も。
「なるほどねえ……ところでフリニカルさんさあ、ここでゆっくりしていく時間とかってあんの?」
「今日は君とゆっくり話をする為に来たのだから、君が話をしてくれると言うのならば、拝聴させていただくよ。正直、門前払いを食らう覚悟もしてたから、逆に有り難い。それから、私のことはフリニカルと呼び捨ててくれて構わないよ。長かったら、ユキのようにフリックと呼んでくれても構わない」
「気が向いたらそう呼ばせてもらうよ。それよりさ、時間があるなら少し昔話に付き合ってもらえないか。フリニカルさんと話してたら少し話したくなった。一輪の花を愛した夢見と、そんな夢見を好きになった幼い少女の話さ」
少し長い話になってしまうだろうから、お茶のおかわりは用意しておくかと訊ねれば、フリニカルは軽く首を横に振った。オレは、一口だけお茶を啜って口内を潤してから、思考を、あの幼い日に見た黄昏の光景へと遡らせた。
オレの故郷に彼がやってきたのは、春の訪れがようやく感じられるようになってきた季節の、美しい黄昏時のことだった。まだ、寒さが残る時期の黄昏の空は、木々のシルエットに落ちる明るい青から赤への色の変移が美しく、オレは夕食に呼ばれるまで村を見下ろせる小高い丘の上からよくその色の変移を眺めていた。その日も、特に何をするでも無く作物が飢えられる前の、土がまだ剥き出しになった畑を見下ろしながらぼうっと日が落ちるのを見つめていた。そんなオレに声をかけてきたのが、彼だった。
「やあ、お嬢さん。今晩私を泊めてくれそうな家を知ってたりはしないかい?」
夢見に多く見られる白髪を短く切りそろえた彼は、日が落ちる直前の、一番透き通って痛々しいくらいに何処までも純粋な蒼の色を瞳に宿らせた、背の高い若い男だった。彼は毛糸で編まれた帽子をかぶっていて、くたびれたコートを着ていた。見るからに長旅をしてきたこの夢見を、当時のオレはすっかり人間だと思い、気の毒に思ったので自分の家へ招くことにした。
いきなり知らない男を連れてきた幼い娘に、オレの両親は酷く驚いていたが、彼が馬小屋でも良いので一晩屋根の下で寝かせてほしいと頭を下げると、元々の人の良さもあって、家に上げることはできないが、納屋に藁を敷き食事を出してあげようという話になった。オレは、どうせなら家にあげてベッドで寝かせてあげれば良いのにと思ったが、残念ながらオレの実家には当時、余分なベッドなど無かったのだから仕方の無い話なのかもしれない。オレの両親の申し出に彼はいたく感謝して何度も頭を下げた。少ない懐から幾ばくかのお金を差し出そうとさえしたが、両親はそれを断った。部屋を貸すのならともかく、納屋の隅に藁を敷いて寝ても良いというだけの話でお金はとれないと言った。両親のその言葉に彼がほっと安堵の表情をしたことが妙に印象的だった。もう、何年も昔の話だから、印象的な髪と瞳以外の細かな顔の特徴は正直憶えていないが、優しそうな、物腰の柔らかそうな青年だったことはぼんやりと憶えている。その日は、両親にだだをこねて、藁を敷くのを手伝い、その夢見と共に食事をとり、一緒に寝た。彼が何処から来て、何をしにここに来て、どこへ行くのか。何を見、何を感じ、何を知ったのか。そんなことをひっきりなしに訊ねたような気がする。彼は、その質問の一つ一つに曖昧な返事を返した。恐らく、オレの質問の返答を持っていなかったのだろう。ただ、どうして旅をしているのかと言う問いにだけははっきりと答えてくれた。
「運命の相手を、探しているんだよ」
その答えをいまいち理解できずに、首を傾げるオレに、彼はかぶっていた帽子を取ってオレに彼が何者なのかを教えてくれた。帽子によって隠されていたのは、小さなネズミの耳だった。オレはそれに驚いて、声もでないままその耳を凝視してしまった。そんなオレに彼は人差し指を口元に当てて、内緒だよと微笑んだ。それから彼は、夢見とはどういう存在なのかということから、自分にとって運命の相手がどういう存在なのか、運命の相手に会えることをどれだけ楽しみにしているか、そんなことをオレが圧倒してしまうくらい饒舌に語ってみせた。 次の日の朝、オレ達はオレの母親に起こされた。やっぱり朝食を彼と一緒に納屋でとってからオレは一度着替えに家に戻って、彼に村を案内した。ここでは、牛を飼っている、こっちは羊、ここは馬、あっちの方の畑では、これから稲の栽培が始まることなどを説明しながら、村の中をゆっくりと見て回った。畑では、作物の栽培を始める準備として、冬の間に風で運ばれてきた石や木の枝を取り除いたり、雑草を抜いたりというような作業をしていた。不意に、彼が目を向けた先には、今まさに引っこ抜かれようとしている芽があった。
「あぁっ! 待って! 待って下さい!!」
彼は、一目散にそちらに駆け寄るとその芽を包み込むように伏せた。その芽を抜こうとしてた人も、その周りで作業していた人も、彼の切羽詰まったような叫びに一斉にこちらに目を向けた。
「な、なんだ兄ちゃん?! 急に飛び出してきたりして……」
「あぁ、すみませんすみません! けれど、どうか、どうかこの芽を抜くのは勘弁して下さい! この芽は、この子は私の運命の相手なのです!」
そして、その場で地面に頭をつけ、この芽を抜かないように懇願しはじめた彼を見て、しん、と村中が凍り付いた。オレは、あっけにとられて、ただただぼうっとその光景を見ているだけだった。
「いきなりこんなことを申し上げてすみません。あなた様は、夢見をご存知でしょうか? 私は、その夢見という生き物なのですが、私たち夢見の、ほんの一握りの夢見は、運命の相手を夢に見ます。そして、その存在に尽くし、共に生きることをこそ至上の喜びと致します。そして、あなた様が今まさに摘み取ろうとしたこの芽こそ、私の運命の相手なのです」
そういって、彼が帽子を取った瞬間、凍り付いた村が一斉に動いた。ざわっと言葉にならない声が漏れ出て、周りに居る人々と顔を突き合わせる。けれど彼はそんな村の様子を気にした様子も無く、その畑の主人である男に縋り付きながら、どうかその芽を摘まないように懇願し続けた。その必死さに、畑の主人も参ったのか根ごとどこか別の場所へ移して育てることを提案した。
「あぁっ! その手がありましたか! ありがとうございます、ありがとうございます! さらに不躾な頼み事をしてしまうことをどうか許して下さい。私は野宿で構いません。あなた様の仕事を手伝いましょう。その傍ら、この子を育むことを許していただければと思います」
結局、彼の勢いに押されて、その畑の主人は彼を労働力として迎え入れることにした。突然の頼みだったにもかかわらず、畑の主人は納屋の窓際の一角を彼の為に掃除し、簡単なベッドと机とたんすを用意してやった。窓の傍には、鉢植えに植えられた彼の運命の相手があった。彼はこの話が決まり、それはもう丁寧にその芽を鉢植えに移し替えると、オレにも感謝の言葉を述べた。
「あぁ、ありがとうお嬢さん。あなたのおかげで私は愛しい運命の相手の窮地を救うことができたばかりか、この子のこれからに尽くすことができる!」
「その芽が、お兄さんの運命の相手なの?」
「そうだよ」
「どうしてそれが分かるの?」
「私の、運命の相手だからさ」
そのときのオレには、彼の言っていることがよく分からなくて、ただ、オレのおかげで彼が喜んでいるということが幼心に単純に嬉しかったことだけを憶えている。
村の何人かは夢見を手に入れた者は必ず成功するというような伝説を知っていて、夢見の受け入れには一悶着あったようだが、奴隷の一人もいないような田舎の村だったから、人とほぼ同じ姿をし、意志の疎通ができる存在を、人ならざる者として扱うのには抵抗があったようで、彼は一カ月もすれば村に馴染んだ。それは彼が黙々と誰よりも真面目に働いたおかげでもあるだろう。朝は誰よりも早く起きて、家畜の世話をする。そして朝食を食べたなら畑に出向き、作物の世話をして夕方からは付きっきりで彼の運命の相手である名も無き植物を飽くことなく愛でていた。オレは、そんな彼が妙に気になって、よく彼の元へ出かけた。彼はオレを邪険にこそしなかったが、別段オレを気にかけてくれることもなかった。何度オレが名前を名乗ろうと、彼はオレをお嬢さんと呼んだ。社交辞令のような笑みを向け、当たり障りのない会話をし、黄昏時には彼の語りかけにも、彼の愛にも答えない無口な運命の相手の元へと帰る。オレはそれが妙に気にくわなかった。村の人々は、名も無い雑草に傾倒し、村の人と必要以上に関わろうとしない、無口で真面目な青年を、変わったやつだと噂した。一度、いつものように黄昏時の空を眺めに丘へ行く途中で、運命の相手に微笑みかける彼を見かけたことがある。美しい笑顔だった。オレには一度だって向けてくれることのない笑顔だ。社交辞令のようなつまらないそれではない。心から愛おしいものを見る者の優しい愛しげな笑みだ。それに嫉妬したオレは、多分その夢見が初恋だったのだろう。なんとも報われない初恋だ。
それでも、一度だけ忘れられない思い出がある。確かアレは、秋も更けた頃。もう、彼がきて半年が過ぎた頃だ。朝に弱いオレが珍しく夜明け前に目を覚まして、折角だから朝一番の冷たい美味しい水でも飲みに行こうと、家畜の世話のために既に起きていた両親に一言告げてから冷たい水が湧き出る場所へと向かった日のことだ。その場所は村の飲料水として使われていたから、道も舗装されていて、夜明け前の暗さであっても子供が一人で行くのに危険はなかった。無事にごくごくと美味しい朝一番の冷たい水を飲んで、ついでに両親に頼まれた家族の分もその水を汲んだ帰りだった。日が昇り初めて、うっすらと辺りが薄く赤く照らされ始めていたその中で、夏もかぶり続けたおかげでもうすっかりボロボロになってしまった毛糸の帽子を被った彼が、水を汲みにやってきた。
「お兄さん、おはよう。相変わらず早いね」
いつも通り素っ気ない挨拶をばかり返されることを半ば覚悟しながら、それでも、少しでも、昨日より親しげに話しかけてくれないかなあと期待を抱きながらオレは彼へと挨拶した。
「やあ、おはようお嬢さん」
そうして、オレの予想通り返された素っ気ない返事の、その後に続けられた言葉と、オレに向けられた笑顔に、おそらく今もオレは縛り付けられてる。
「お嬢さんの髪は、本当に赤いから夕焼けよりも朝焼けに照らされた方が映えるね」
そうやって彼は、彼の愛しいものにいつも向けるような笑みを向けてきたから、オレはついポカンとして、ろくに返事もできないまま湧き水の湧く場所へと向かう彼の後ろ姿を見送った。花がほころぶような心のこもったその笑顔はまるで、人間のそれに似ていて、オレは愚かにも夢見は人と変わらない生き物であると勘違いした。
それがただの勘違いであったと思い知らされたのは、それからしばらく経った、冬の初めのことだった。彼が愛情を込めて育て続けたあの芽は、夏、秋、と季節を過ごし、小さな蕾をいくつも付け、夏頃から花を咲かし続けていた。蕾を付け始めた頃には、彼は朝夕を問わず、あぁ、お前が花を咲かすのが楽しみだと、そればかりだったので、オレも村の人も呆れ半分、ここまでくれば大したもんだという尊敬半分の気持ちで、それでもやっぱりその花が咲くのを楽しみにした。そして、ついに蕾の一つが綻んだ日には、彼は筆舌に尽くしがたいほどに狂喜乱舞した。村の一人一人に、花の素晴らしさ、可愛らしさ、いじらしさ……なんてものを説いて回った。オレたちは彼のその花に対する終着をもう思う存分味わっていたので、苦笑しつつも、そんな彼を邪険にすることもなく、良かったねぇと祝福した。しかし、冬が近づくにつれ、徐々に元気がなくなっていく花に、彼もだんだんと暗くなっていった。薄紫色の小さな五枚の花びらを持つその花は、冬を越す株もあるが、殆どが冬の寒さに耐えきれず枯れる運命にあることを、オレは彼の面倒を見ていたあの畑の主人から、彼と一緒に聞いた。その話を聞いたときの彼はぽろぽろと涙を静かに流しながら、もうだいぶ花の少なくなったその鉢植えを抱きしめていた。何がそんなに悲しいのか、オレには理解できなかった。元はといえばそこらへんに生えていた雑草なのだ、こんなに大事にしてもらって十分ではないかと当時のオレはそんな彼を見て思ったものだ。けれど、そんなオレの思いに反して彼はどんどん落ち込んでいった。村の人々も見かねて、なんとか彼に元気を出してもらおうと、越冬前にささやかな宴を開く話が持ち上がった。驚かしてやろうと彼に知られないように、こっそり進められた準備が整い、彼に一番なついていたオレが彼を呼んでくるという大役を仰せつかった。けれど、肝心の彼がどうしたって見つからない。畑にも、家畜たちの小屋にも、もちろん、彼が住んでいた部屋にも。綺麗さっぱりと不自然に片付けられた部屋に、空っぽの鉢植だけがぽつんと置いてあるのを見て、オレは胸騒ぎに飛び出した。無意識のうちに向かっていたのは、始めて彼と出合った、あの、小高い丘だ。あの丘の近くには切り立った崖がある。それはただの直感だったが、オレは迷うことなくその崖への道をおもいきり走った。
「おや、いいところに」
オレの直感どおり、彼はそこにいた。大事そうに、何かを抱えている。
「どこに行くの?」
始めて出合ったときの様な、美しい色の変移を見せる空に、穏やかな微笑を浮かべた彼。懐かしいけれど、嫌な予感がした。
「あの花は、もう長くないと知って私の手で終わらせたんだ」
オレの問いには答えず、ただ穏やかな顔で彼はそう告げた。
「これは私のエゴかもしれないね。けれど、私の美しく可憐な運命の相手が無様に枯れてしまうことがどうしたって許せなかったんだ」
何を馬鹿なことを、と当時のオレでさえ思った。今も思う。摘まれそうになったその花を掬い、鉢植えに植えて丁寧に世話をしたのは全て彼のエゴだと、オレは思う。だから、枯れる前にその花の命を終わらそうが、オレとしてはそれを、その行為だけをエゴと呼ぶにはいささか遅すぎたと思った。けれど、運命の相手の、最善を、幸福を、夢見た夢見にとっては違うのだろう。意思疎通のできない植物相手に、最後を選ばせてやることはできない。自分が考えた最善を尽くすしかない。彼は、自然の摂理に任せず、自らの意思でその花の生を終わらせた自身の判断をエゴと言ったのだろう。
彼は微笑みながら、オレに歩み寄った。オレは彼を呼びに来たというのに少したじろいだ。それから、彼はそっとオレに手のひら大の塊を握らせた。
「一緒に持って行こうかとも思ったのだけど、それこそ私のエゴのような気がしてね。お嬢さん、あなたが持っていてはくれないか」
塊は、溶けたガラスを固めたものだった。中には一輪、彼が愛し育てた花が永遠の時間に閉じこめられている。
「押し花にしたものを閉じこめたから、随分持つはずだよ。できれば、大切にしてほしい。頼めるかな」
その問いに思わずこくりと頷くと彼は、さっぱりとした顔でオレに別れを告げた。
「その子のことをどうか頼んだよ、トモ」
出会ってから初めて呼ばれた名前に、ガラスに閉じこめた花から視線をぱっと彼に戻せば、彼は崖から飛び降りていた。それから先はあまり覚えていないのだけれど、とにかく、最期の最期に名前を呼ぶのは狡いとそればかりが頭の中にあったような気がする。最期の彼のさっぱりとした顔と、朝焼けの中でオレに笑いかけてくれた笑顔と、決して分かり合え無かった交流と、分かり合え無いまま、エゴを貫き通して死んだ彼の最期の後ろ姿が今でも頭を過ぎる。何度、彼に託されたこの花の亡骸を捨ててやろうと思ったことか。けれど、捨てようとする度に、頼んだよトモという彼の最期の言葉がどこかから聞こえてきて、結局捨てられないまま、旅の最後まで持ってきてしまった。この集落へと迷い込んで、荷物を全て取り上げられたときも、この花の亡骸だけは勘弁してもらった。これは、彼との約束で、分かり合えない生き物がこの世にいるというオレへの戒めで、思い出だ。
「もしかしたら、最期のあの時止められたかもしれない。そもそも、オレが村を案内なんてしなければ、彼は花を見つけることなく今も生きていたかもしれない。そう思うと、オレがあの夢見を殺したも同然のような気がするんだ。もちろん、これは人の、オレの勝手な価値観なんだけどよ」
話し終えてみれば、口の中がカラカラだった。残ったカップの中身を流し込んでみれば、冷めていて不味かった。花の亡骸には革紐を通して、今も首にぶら下げていたから、無意識のうちにそれを触りながらオレは話していた。
暫くの沈黙が沈んで、それから、フリニカルはまるで独り言を呟くかのようなトーンで話し始めた。
「その彼と同じ夢見である私にしてみれば、トモ、君が彼を村に留め、彼の運命の相手に出会わせて、そして、彼の幸せな最期を看取ってくれて、とても、嬉しく思う」
「あの夢見は、本当に幸せだったと思うのか」
「あぁ。断言しよう」
「花が枯れる絶望に身をゆだねながら崖から身を投げた彼が! なんで幸せだって言えるんだ! 生きていたら、そのまま生きていたらまた別の幸せがあったかもしれないのに? 永遠の時に閉じこめられた花とともになんで生きてくれなかったんだ……なんで、村の人もみんな彼のことを村の一員だって思ってたのに、死んじゃうんだ。死んでなんて欲しくなかったのに。そんなことで死んでしまうって知ってたら、どうしたって止めたのに。止めたのに。なんで、それが幸せだって言い切れるんだ」
フリニカルはオレの言葉に、少し逡巡してから、そうっと答えた。
「運命の相手と永遠に出会えないまま、ただ永い生を生きるのはね、私たち夢見にとっては苦痛でしかないんだよ。だから、一つ目の幸せは、君が彼を彼の運命の相手に出会わせたこと。それだけで、私たちにとっては、人の巨万の富よりも価値のあることだ」
悟らせるかのような声は、どこか懐かしい。あぁそうだ。彼も、彼の運命の相手の事以外ではこんな風に感情の読みとれない、どこか遠い話し方をしていた。
「次に、君たちが彼を、そして彼の生き方を受け入れてくれたこと。彼は何にも煩うことなく、運命の相手に尽くすことが出来た。これも、美食家が血相を変えるような世界中の豪華絢爛な珍味や料理の数々を食す事よりも、私たちにとっては大層幸せな事だ」
そうだろうか。本当にそうだろうか。オレには分からない。ただ、彼は日々を本当に幸せそうに過ごしていたんだ。だから、その幸せがずっと続けばいいと思ったし、花が枯れてもまた新しい幸せを見つければいいと思った。
「そして最後に、君が彼の最期を看取ってくれたこと。私たち夢見にとって、運命の相手がいなくなった世界を生きることは、どんな辱めや拷問を受けることよりも、植物をも枯らす灼熱の中で一滴の水も与えられないことよりも、すべての生き物が凍り付くような極寒の静寂の中で何一つ着るものを与えられないことよりも、なによりも、辛く苦しいことなんだ。彼は、自分の手で運命の相手の生を終わらせて、もう、何も思い残すことは無かったのだろうね。その上、何よりも大切な自分の運命の相手が、確かに存在した証を、君に託すことが出来たのだから彼は間違いなく私の知る中で一番幸せな夢見のはずだよ。それこそ、ユキよりもね」
彼は、幸せな夢見だったのだろうか。そうなのだろうか。夢見であるフリニカルが言うのだからそうなのだろうか。そうであったのなら、少しだけ報われた気がした。
「彼が本当に幸せな夢見だったのなら、きっと彼が去った後、君の村は栄えたはずだよ」
「あぁ。彼が死んだ次の年から麦は毎年豊作で、穂はどの村の麦より大きく重く、香りは豊かで、色はまっさらな良質のものが穫れるようになった。家畜たちは病気をすることもなく、たくさんの子を産み、やっぱり素晴らしい乳や毛や卵をオレたちにくれた。村はとても裕福になったよ。おかげでオレは首都の学校に通えたし、お金に困ることなく旅をしてこれたのだから。だけど、それが彼の置きみやげだとオレたちだって気づいたけれど、それを心から喜んだやつは居なかったよ。オレも、誰も、彼を喪った悲しみの方が大きかった。今も、収穫祭の時は彼への感謝の気持ちを告げる歌で始まって、彼への鎮魂歌で終わる。そのときはみんな一様に悲しい顔をするし、オレもやっぱり悲しい。変わり者の、余所から来た村の一員を、みんな好いていたんだ。良質で撓わに実る麦も、病気知らずの家畜も、嬉しくないかと聞かれれば、それは確かに嬉しい。けれど、オレ個人としてはそんなものよりも、彼に生きていて欲しかった」
生きていて欲しかったと、ぽつりと呟くように出た言葉は今でも本心だ。オレや村の為に生きてくれなかった彼が少しだけ、恨めしい。フリニカルは、少し、不可解そうな顔をしながら、またオレに尋ねる。
「その生が、彼にとって不幸極まりないことだとしても?」
「彼が最後に自分のエゴに生きたように、オレのエゴを押し通せたのなら、きっと」
「愛する者が不幸に生きることが、君にとっての本当の幸せなのかい?」
「いや、それは違う。愛する者と共に幸せであることが本当の幸せの一つだと思う」
「けれど、君は、彼の生を願っただろう?」
少しの問答の、その問いに、夢見の幸福論とオレのそれがまったく異なる者であることを改めて思い知らされる。幸せは、一つじゃない。
「大切な存在が死んだらそれは悲しいけれど、それを乗り越えた先に違う幸せがあるとは考えられないのか」
「私たち夢見の幸せは、運命の相手に尽くし、運命の相手の為に死ぬことだからね」
その答えに、ここに来てからオレがずっと考えていたことを、逆に訊ねてみた。
「尽くされることも、死なれることも勘弁してほしいってその運命の相手に拒絶されたらどうするんだ」
そうすると、フリニカルは少し目を伏せがちにしながら、それでも変わらず穏やかな様子で答える。
「それは、もうそのまま惰性で生きるしかないなあ」
「それは、幸せなのか」
「他の、夢を見ない夢見に比べたら、それでも幸せだろうね」
「本当に? 本当に、そんなのが幸せなのか」
「ヒトには、理解できないのかもしれないね」
そうやって出された結論に、あぁ、確かに理解できないと思った。大切な人のために生きることも死ぬことも否定されたら、オレは辛い。オレは辛いから、ユキを否定することが出来ない。けれど、オレのために生きることも死ぬことも否定しながら、せめて少しでも一緒にいる努力をしようと持ちかけるオレは、ユキを不幸にしてるのではないだろうか。
「ユキのことを案じてくれるのかい」
フリニカルが、そんなオレの表情を読みとったのか、また、オレに語りかけてきた。ユキのことを案じるのはもう仕方が無かった。哀れなあの生き物を放ってはおけない。
「オレのために生きると断言する生き物を、どうにも、放っては置けないさ」
「私はね、ユキの運命の相手が君で良かったと本当に思っているんだよ。おそらく、この集落の夢見みんなが思ってるはずだ。君は、君が思うよりずっと優しい人だ。だからこそ、ユキも、私も、この集落の夢見も君をここに閉じこめることを仕方ないとは言え、本当に申し訳なく思っているんだよ。けれど、君がユキを邪険にしないでくれるから、ユキはやっぱり本当に幸せだと思うし、できれば私は君にも幸せであって欲しい」
「オレの、ここでの幸せってあるのか?」
「すまないが、私はどうしたって夢見だからね。君の幸せがなんなのか、そんなものは到底理解できやしないのだよ」
穏やかな日差しの中で語られた幸福論のようなそれは、結局の所終着点を持たずして迷子のままどこかへ行ってしまった。
「フリニカルさんは、どうして一度夢見の集落を出たんだ?」
「私たち夢見の幸福論に疑問を憶えたからなんだけれどね。結局、私はヒトの言う幸せも理解できなかったよ。不可解なヒトの幸福論の中で得たのは、私は所詮夢見に過ぎず、運命の相手を夢に見ることが無ければ、ただ、この虚無的な気持ちを抱きながら惰性で生きるしか無いという、どうしようもない事実だけだったよ」
オレはただ、運命の相手が傍らに居るだけで、それを拒否されないだけで幸せだというこの生き物を心底可哀想に思うのだ。その運命の相手が居なくなったなら、生きる理由が無くなってしまう生き物に、運命の相手を、夢で見ることがなければそもそも幸せになれない生き物に、オレは心から同情した。
「私からすれば、夢を見る夢見って言うのは少し違うんだ。そう言う意味ではユキも、何故ここに留まっているか分からなかったね。そして、君がここに来て、ユキが君を夢で見て。私は恐らくもう運命の相手を夢で見ることの無い夢見だけれど、ユキと君を見ていると少しだけだが、慰められる思いがするよ」
そして、それでもその生き物の幸せに寄り添うことができない、オレという生き物の難しさを痛感する。夢見のように絶対の幸せを手に入れれば、幸せになれるのだろうか。違う気がする。たぶん、オレも、オレが旅で出会った人々も、それぞれにそれぞれの幸せがあって、それを探しながら生きていたはずだ。思いがけない出会い、思いがけない偶然の中に幸せを見いだし、ときに、当たり前の中に幸せを見つけ、悲しみや苦しみ、挫折を乗り越えた先に幸せを掴むのだろう。幸せとはいったい何なのだろうか。
かちゃりとカップをおいてフリニカルが立ち上がる。
「美味しいお茶をありがとう。私でよければまた話し相手になるし、何かあれば相談してほしい」
「あぁ。是非頼むよ」
そうオレが答えて、フリニカルがドアをくぐって暫く、幸せを望む者が住む緩やかな絶望の渦巻く空間に、がちゃりと錠のかけられた音がした。