第一章 ルフィルスタウン

 ニードが砂漠に横たわっているのとほぼ同時刻。トモは夜中にふと目が覚めた。
 毛布から出ようとして、外気の冷たさに一瞬躊躇う。毛布をしっかりと体に巻きつけてからおずおずと部屋を出れば、家には誰もいなかった。夜はニードの活動できる時間帯なのでそう珍しいことではない。
 トモはお湯を沸かしにかかり、お茶を淹れる準備をする。
 昼間の喧騒を忘れるような闇夜の静けさがトモには妙に新鮮だった。もう何年もここに住んでいるのにトモはこの闇夜の静けさにはいつまでもなれない。そして、思う。ニードもおそらく昼間の喧騒になれることはないのだろう、と。
 どちらも同じルフィルスタウンの姿だが、あまりに違うその表情にトモは多少の戸惑いを感じた。ニードとトモとではルフィルスタウンの姿を思い浮かべた時にまったく違う風景を思い浮かべるのだから。同じ家に住み、一緒に育ったのにもかかわらず、想う故郷の姿はまったく違うのだ。それがなんだか妙に奇妙だった。
 沸騰したお湯を茶葉を入れたポットに注ぎ、少し蒸らす。ふんわりとお茶の香りが漂い、トモのざざ波立っていた心を落ち着けた。
 そして、夕方交わした会話を思い出す。
 ニードがもしも自立したら。
 考えたことは無かったけれど、ありえない話ではない。そしてそれは自分にも当てはまる。結婚して、家を出る事だってあるだろう。いつまでも二人で暮らしていくわけじゃないのかもしれない。
 そこまで考えて、トモは変わり行く世界と有限の時間に気付いた。
 暗い夜のルフィルスタウンだって、あと数時間もすれば夜明けを迎えるように、変わらないものも無ければ終わらないものも無い。そんな中で生きている自分は何がしたいのか。どうすればいいのか。
 少しだけ、泣きたくなった。そして、勇気が欲しいとトモは切実に思った。
 自分で歩くことのできる勇気が欲しいと。
 少し冷めたお茶を一口飲むと体中にじんわりと温かさが広がった。
 ゆっくり、ゆっくり喉をつたって温かなお茶が胃へと流れていく。お腹から全身にじわっと温かくなる。それをコップがからっぽになるまでトモは繰り返した。
 ニードが帰ってくるまで待っててみようか。
 突然トモはそんなことを思いついた。温かいお茶を淹れて迎えてみようかと。帰ってくるのを待ってみようかと。
 そうだよなぁ、とトモはなおもとめどない思考のうずに身を任せる。
 待っててくれる人がいる。帰る場所がある。それはどんなに遠くに行こうと、変わらないだろう。自分がどんなに遠くに行こうが、きっとニードも町の人も、自分が帰ってきたときにはお帰りと言ってくれるだろう。トモはそう思って、フードをかぶった旅人、ユキのことを思い出す。
 ユキはきっと、大きな秘密を追って旅をしているのだろう。帰る場所も無ければ、迎えてくれる人もいないままにそれらを奪った理由をきっと追い求めているのではないか。
 ならば、とトモが長年何度も何度もグルグルと同じ所をたどった思考がようやく行き着いたのは、ユキとともに旅に出たい。いや、ユキとともに旅に出ようと言う結論だった。
 それは一株の好奇心と、直感。そして、気持ちが変わらないうちに連れ出してくれる誰かを求めた結果。
 もう、嘘はつかない。つけない。トモは確かに自分の中にくすぶる好奇心と向き合った。
 今日はニードを迎えたら、またユキに会いに行こう。大分長い時間考え込んでいたにもかかわらず、町はいまだ静かで暗いけれど、それもあと少しだけ。夜が明けたらすることをトモは何度も頭の中に思い描いた。
 しかし、それも早々に飽きたトモは、もういっぱいお茶を飲もうとお茶を淹れようとしたところで朝ごはんも作っておこうと思い立ち、いつもよりもかなり早い朝ごはんの準備をはじめた。
 のんびり二人分の朝食を作っているうちに、夜明けはトモの想像以上に早く来た。
 うっすら外が明るくなったことに気付いてから、トモの知っているルフィルスタウンの姿に戻るまで時間はほとんどかからなかったのだ。
「どうしたの?!」
 そろそろ、日差しも強くなってこようかというころ、ニードが信じられないとでも言いたげな声と共に帰ってきた。
「おー、お帰り」
「え、うん。ただいまー……じゃなくて! どういう風の吹き回し?」
 いつもニードがトモににかけていた言葉を、いつもとは逆にトモがニードにかけてみれば、すこし混乱しているかのような返答が返ってきた。実際、ニードは少なからず混乱しているのだろう。ニードが家に帰って、朝食を用意されていたことはもちろんトモが起きていたことすらまったく無かったのだから。
 ニードがテーブルに並べられた朝食とトモを見比べている様があまりにもおかしくて、トモはとうとう噴出してしまった。
 お腹を抱えてげらげらと笑っているトモを見ても、まったく状況が理解できないニードはただ玄関の前に立ち尽くすしかなかった。