第一章 ルフィルスタウン

 ニードの言葉に、トモは何もいえないでいた。
 トモは、ニードが結婚するだなんて考えたこともなかった。いつまでも、二人で暮らすかどちらかが出て行くかあるいは死ぬかそれ以外に二人が別々になる理由が考えられなかったのだ。
 だから、いきなりそんなことを言ってきたことに対して戸惑った。さらに「足枷になりたくない」だなんていわれて戸惑った。
 今まで、自分がニードから離れたらニードはどうするのだろうとか、そんなことばかりトモは考えてきた。ニードがもし自分の意思で、自分から離れたときに自分はどうするのか。そんなことは考えたことがなかった。そして、考えてみて出た答えは、また、なんだかんだ理由をつけて変わる事のない生活を送るのだろうということだった。
「オレ、は」
「うん」
「お前が結婚するとか、考えてなかったけど」
 一息おいてから、真っ直ぐにニードを見据えてトモは言った。
「お前が足枷になるだなんてありえない」
 トモは気付いた。ニードやこの町を理由にするのはただ単に自分がこの町を出るのが怖かっただけなんだと。恐怖を他のもののせいにすることで、自分をごまかしていたのだと。
 自分たちの所為にされるなんてたまったもんじゃないよな、とトモは漸く気付いたのだ。
 トモの瞳に、いつもの強い光が点ったのをしっかりとニードは見た。そして、訊く。
「なんで?」
「他のやつを理由に、自分の何かをやりたいって気持ちに嘘なんかつけるほどオレは器用じゃない。いざとなったら、お前の意見なんか聞かずにやりたいことをやるっつーんだよ。ニードを置いてけぼりになんて、全然できるんだからな! お前が結婚しようがしまいが、自立しようがオレには関係ないんだからな!」
「そう」
 そういった、ニードの顔はやっぱり穏やかで。それとなくトモは苛立ちを覚えた。
 いつも、ニードは穏やかで、さりげなく自分の背中を押してくれる。何も知らないようで、全てを知っているかのようにトモを助けてくれた。どうやっても敵わない、兄という位置に居座るこの血の繋がってない男の、そういうところがトモは気に食わなかった。
「なんでお前は、そうやってオレの兄貴になるんだよ」
 ため息交じりに出た言葉は、トモがずっと不思議に思っていたことだった。
 なぜ、血の繋がっていない自分をここまで面倒見れるのだろうか。
「え。だって、トモがあまりにもかわいいからさ」
「はっ?」
「だって、帰ってきていきなり悩みを聞いてくださいって言うかのような瞳で見つめられちゃったら……ねぇ?」
「ねぇって……」
 トモは今度こそ、深いため息をついた。いつだってそうだった。いつだってニードだけには。
「かなわねぇ……」
「お兄ちゃんですから」
 からっぽになったコップとお皿を水溜め場にもって行き、トモは無言で部屋に戻っていった。

 深い夜が来た。昼間の熱気が嘘の様に消え、風は体を切り裂き、体の心まで熱を奪い去る冷徹の悪魔となったそんな夜。
 ニードは防寒用のマントを被り、町へ出た。色素を少量しか持たない彼にとって昼間の日射はマントを被っていても命を奪い取るほど凶悪なものだ。しかし、夜の寒さは熱を奪うが、命までは奪わない。夜は、彼の時間で彼の味方だった。
 トモも、緋色の髪と瞳からわかるように色素をほとんど持っていない。しかし、不思議なことに太陽は彼女の味方だった。彼女は太陽の光で皮膚が赤くなることも、あまりの眩しさに目がくらむことも無い。
 よって、昼間はトモが、夜はニードが街の見回りをすることになっている。
 そして、自警団ヴァンパイアの本当の活動時間も、夜である。
「ごめん、遅れた」
 昼間、トモが訪れた酒場は夜になると店をたたむ。理由はもちろん、夜になればそこは本格的にヴァンパイアの本部としての活動拠点地としての役目を果たすからである。
 トモには秘密にしているが、ニードは夜になるたびにここに訪れて事細かな活動――もちろん、犯罪の取締りなども含める――を管理、指示している。いわば、自警団の団長の役目を果たしている。
 それが意味すること、つまり、表ではトモとニードが中心となってといっているが若干十四歳の少女に仕事を任せられるはずもなくほとんどの仕事をニードが請け負っていたのだった。
「じゃぁ、早速定例会議を行う。何か、変わったことは無いか?」
 ニードの凛としたテノールが響く。彼は、昼間こそ表に出れないがその頭脳はここにいる誰よりも明快であり優秀である。しかも、ほとんどの者は知らないがニードの武術の腕前はトモを凌ぐほどの強さである。年齢は二十歳とまだ若いが、団員が彼に寄せる信用は絶大なものだった。もちろん、ヴァンパイアが自警団としてきちんと機能しているのは才能あふれるとはいえまだ若いニードをサポートする大人の存在あってこそだということを忘れてはならないだろう。
「無い様だな。では、俺から一ついいか?」
 一昨日、大きな問題となっていた犯罪者を捕まえたためコレといって異変はないようだった。イサクの努力が実り、最近は報告することが少なくなってきているので、こういう状況はそう珍しいことではなかった。
 ゆっすくり息を吸って、ニードは団員達に伝えた。
「もう少ししたら、トモはこの街から旅立つかもしれないよ」
 その言葉に一気に酒場がざわめきだった。
 何故なら、トモはヴァンパイアの、裏通りの、いやルフィルスタウンの住民にとって英雄の忘れ形見であると同時に、友人であり、子供であり、孫であり、姉妹だった。トモは、いつも真っ直ぐだった。トモ自身は覚えていないだろうが、街が再び一つにまとまったきっかけを作ったのは彼女だった。
 それだけに、町の人はみんな彼女を大切に想っている。そして、彼女が第二の英雄となることを望んでいた。
「そんなの許せるか!」
 誰かが、叫んだ。それをきっかけに、どんどんとトモをこの町に引きとめようとする声が上がった。
「静かにしてくれ!」
 ざわめきを、ニードの声が突き抜ける。魔法にでもかけられたかのように誰もが口をつぐんだ。
「どうか、彼女の気持ちを最優先に考えて欲しいんだ。トモは、絶対街の人に出て行くことを伝える。そのときに、どうか、彼女を引き止めないでやって欲しいんだ」
 ニードの顔はヴァンパイアをまとめる者のそれから兄としての顔に変わっていた。
「それは、ヴァンパイア団長としての命令か」
「いや、悪いとは思うが妹を思う兄としての頼みだ。言ってしまえば職権乱用かな」
 誰かの厳しい声に、静かな声で答えるニード。
 ルフィルスタウンの人々は、英雄の存在に依存してしまっているのだろう。たった一人英雄がいれば、何かがあっても助けてくれると、自分達は幸せでいられると、その姿をトモに映してしまっているのだろう。
「彼女は、街にいるべきだ。イサクさんの後を継ぐべきなんだ」
「彼女こそ、英雄に相応しい!」
 先ほどとは比べ物にならないほどの声が上がる。
「そうだね」
 ニードは、彼もイサクの忘れ形見であるにもかかわらず、それには一切触れない彼らを気にした様子も無く。やはり、静かに言った。そんなに大きな声ではなかったはずなのに、その声は妙に響いた。
「トモは、人を惹きつける力を持ってるし、強いし、真っ直ぐでまさに英雄となるべき人物だね。けど、この街にはまだ英雄が必要なの? 何のための自警団なの? ルフィルスタウンは一人の英雄の存在で成り立つんじゃないでしょ?」
 ずっと前から思っていた、育ての父の背中を見てずっと疑問だった。育ての父の変わり身となる妹を見てその疑問は強くなった。そして今、ニードはその疑問を自警団全員に向けた。
 赤みがかった灰色の瞳には強い意志の光が点っている。その光はトモと似通ったものがあった。血のつながりは無くとも、一緒に育った兄妹だということを、確かな絆で結ばれていることを自警団の団員達は感じた。
 人々を束ねるものとして、また妹を愛する兄としてニードはこの街が変わることを願い、なお続ける。
「俺たちは、誇り高きルフィルスタウンの自警団だ。たった一人の英雄にその役目をとられて良い、そんな軽い自警団ではないだろう? 俺たち一人ひとりが、この街を守っていく。そんな街づくりを先代のリーダーは、父さんはしたかったんだと思う。父さんの意志を継ぐ気持ちがあるのならば、変わるべきではないのか? 違うか?」
 決して、怒鳴ったりしているわけではないのにその声には気圧される何かがあった。その姿に、自警団のメンバーは英雄イサクの姿を見たような気がしていた。
「よく、考えてくれ。じゃぁ、解散」
 静かな空間の中をニードは通り抜け、一人酒場を出て行った。そして、そのままの足で外壁の外に広がる砂漠へと向かっていく。
 サク、サク、サクと砂を踏む音が静寂の砂漠の中にかすかに耳に届いた。
 街が見えるか見えないかと言う所まで来ると、仰向けになって砂漠に横たわる。目の前には、漆黒の闇に光る無数の星のみがどこまでも果てしなく広がっていた。
 ふと、今は眠っているトモのことをニードは考えた。
 街の期待を一身に背負って生きてきた彼女は、今、その期待を放棄してこの広い空の下へ歩みだそうとしている。悲しいかと、寂しいかと問われればニードは正直、トモをどうやっても引き止めたい衝動に駆られるほどには悲しいし、寂しさを感じている。
 しかし、それと同時にこれが運命なのだと頭の隅で納得していた。自分は、おそらくトモが生まれて、ある程度育って、そして空の下、砂漠の砂を踏み広い世界へ踏み出すまでの時間、彼女を見守るために生まれてきたのだとさえ思う。それはあまりに深すぎる愛情で、血の繋がっていないものへ人はここまで愛を注ぎ込めるものなのかとニードはふと、考えた。
 考えて、今はもうおぼろげになってしまったトモの両親の優しい瞳と、トモが始めて見せた笑顔を思い出す。まだ赤ん坊のトモが、すでに強い光を灯していたあの緋色の瞳でニードを見つめ、笑った時のあの笑顔だ。
「そうだ……」
 ニードは思い出した。
 その時の笑顔を見た時に、ニードはどんなことがあってもトモの幸せを守り抜こうと強く誓ったのだった。あの、純真無垢な笑顔を守ろうと。いつまでもこの子が笑顔でいられるように、自分が守ろうと。
 そしてそれは、自分が憧れた、こんな人になりたいと思えたトモの父親との約束でもあった。
 それと同時に、最後に見たお腹の大きなニード自身の母親のことも思い出す。自分の家族よりも、新しく生まれてくる血の繋がった弟か妹よりもトモを選んだあの日、ニードの母親は少しだけ寂しそうに、しかし確かに誇らしげに笑っていた。
 自分も母と同じように笑って見送れるだろうかと、ニードは考えた。多分、無理だろうと言う結論に至った。みっともなく泣いてしまうかもしれない。笑顔が歪んでしまうかもしれない。もしかしたら見送ることさえ辛くてできないかもしれない。それでも、トモがニードを気にせず未来に希望を持って旅立ってくれればいいと、ぼんやり思った。