第一章 ルフィルスタウン

 酒場を出て、トモは表通りを歩いていた。町は活気に満ち溢れ、平和そのものである。
 そんな町の様子が、トモは好きだった。そして、そんな町の平和を守る自分の役目が好きだった。ニードとの暮らしが好きだった。
 けれど、ユキとの出会いが、ライアの語った情報が、トモの好奇心を刺激し旅への憧れを揺り起こす。
 旅にでたい。
 吹き荒れる砂の中を歩き、見たことのない場所へ。
 旅にでたい。
 この国の全てをこの目に収めてみたい。
 旅にでたい。
 何より、いろんな人との出会いを経験してみたい。
 ルフィルスタウンだけのトモの世界は、あまりにも彼女にとって狭すぎるのだ。
 トモの足は、自然と町の外へ向かっていく。町をぐるっと囲んでいる高い外壁の外にはただ、砂丘のみが広がるだけである。それでも、外壁の外へ出ずに入られなかった。
 今日は、風がなく砂がトモに吹き付けることはない。
 トモはそのまま、しばらく外壁の外にたたずんでいた。焼き付けるような太陽がトモを襲う。マントをかぶりなおし、暑さの中ただただ佇んでいた。
 このまま、歩き出してみようか。
 そんな考えが一瞬頭をよぎって、途端に今こうしていることが馬鹿馬鹿しくなる。そんな勇気もないくせに、自分は何を思っているのか、と。
 頭を振って、トモは家へと戻っていった。
「オレは何がしたいんだ……」
 その呟きを砂にしみこませて。

 トモが家へと戻ると、普段は日が落ちてから起きてくるはずのニードが昼前だと言うのに珍しく起きていた。
「おかえり」
 そう言って、イサクが生きていたころ――まだ、トモが自分たちが本物の兄妹だと信じきっていたころの笑顔をニードは向けてくれる。チクリ、とトモの胸が痛むがその理由が、ニードを置いてまで旅に出たいと思う自分の考えの罪悪感から来るものなのか、本物の兄妹でもないのに本当の妹のようにいつまでも思ってくれるニードの優しさに対してなのか、それとも別の理由があるのか。いまいちトモは図りかねていた。
 複雑な思いで、返事をするために口をあける。
「ただいま」
 言葉は紡ぎ出せたものの、声は小さくニードから目をそらしてしまう。
 そんなトモの様子は珍しい。いつもなら「なんでお前がおきてんだよ。夜勤に響くだろうが」とか何とか憎まれ口をたたくはずなのだ。そんなトモが無性にかわいいと常日頃から思っているニードは不思議そうに声をかけた。
「どうしたの?」と。
 たった一言である。いつもどおりの一言。何の変哲もなければ、あまりに自然な一言だった。それでも、その優しい声音と灰色の涼しげな瞳は、もともと情緒不安定になっていたトモをさらに混乱させるのには充分だった。
 何も言わないで、ずっと佇むトモ。その様子に心配になってニードはそっと、その緋色の髪の毛に触れた。今日、旅人にあってくるというようなことを話していたから、髪と目の色で何かを言われたのかもしれないと思ったのだ。
「トモ、どうしたんだい?」
 もう一度、トモの髪の毛を撫ぜながら、さらに優しさが増した声で尋ねると、ピクリと少し反応があった。
 戸惑いがちに、トモが視線を上げればそこには、兄の表情をしたニードとその曇りのない優しさに満ち溢れた灰色の瞳があった。神の愛子と呼ばれる所以の銀色の髪と灰色の瞳は、いつもトモを安心させ、同時に混乱させる。
「オレッ……わかんなくて。けど、心が渇望してて。けど、ここにいたくて……。わかんねぇんだよ」
 漸く搾り出した声は、小さくかすれていた。心の中に住まう矛盾と葛藤は想像以上にトモを追い詰めていたらしい。微笑を浮かべながら髪を撫ぜているニード以上にトモは自分の出した声の弱々しさに驚いた。
「いや、でも! ニードには関係ないし! うん。気にするな!」
 とりつくろうように出した声は今度は大きく乱暴で。気丈な表情と裏腹にトモの目は不安に揺れていた。
 ニードはその言葉に笑みを深めた。そして立ち上がると、トモにテーブルへと促す。
「アップルティーでも飲もうか。小腹がすいて起きちゃって、クッキー焼いてたんだよ。もうそろそろ焼きあがるはず」
「あ、えと。うん」
 いつもどおりの微笑み。微かに香るクッキーの香ばしい香り。トモが帰ってくる前からすでに用意していたらしく、すぐに出されたお茶の香り。それらの全てがトモの心を落ち着けた。
 ほっ、とトモが息を小さく吐き出したのをニードは確認してから焼きあがったクッキーを取り出した。
 会話はなかったが、穏やかな時間が流れる。
「ねぇ、トモ」
「あん?」
 それを、崩すとわかっていてニードはトモに質問した。
「トモは、オレがいなくなったらどうするんだい?」
 それが、兄としての役目だろうから。
 トモは顔をしかめて、首を傾げた。
「なんだよ、いきなり。んなこと考えたこともねぇよ」
「じゃぁ、今考えてごらん。オレがいなくなったら、トモはどうしたいの?」
 いつになく、真剣で断定的なニードの言葉に、トモは戸惑った。しかし、ニードの表情は真剣で銀の瞳は揺るぐことなくトモを見据えている。
「わかんねぇよ。つーか、そんな縁起でもないこと考えたくもねぇし」
「なんで縁起でもないの? 例えば、オレが結婚したら? とかそういう意味だけど?」
 それともトモはオレに結婚して欲しくないの? と、ニードが表情を崩して茶化して言えばトモは顔を思いっきりしかめた。
「お前が、結婚?」
「そ。オレが結婚。そしたら、この家を出るだろうしさ」
「好きな奴でもいんのか?」
「そうじゃない」
「じゃぁ……」
 なんで、と紡ごうとした言葉は出てこなかった。あまりにも、ニードの顔が穏やかだったからだ。
「オレはね」
 穏やかな顔、穏やかな声。それで紡いだ言葉はどこまでも優しく、厳しかった。
「トモの足枷にだけはなりたくないんだよ」