第二章 飛竜

 四肢で歩く巨大な獣の背には純白の翼、尾は蠍の尾を持ち、頭部は風になびく金色の鬣に覆われていた。金色の瞳はすべてを見透かすかのようで、その堂々たる様はその場にいるものすべてに等しく畏怖の感情を植えつけるだろう。強大な魔力を持つその存在は、自らをクェルツェルと名乗った。
――覚えている。そしてユキはこの先も忘れはしないだろう。生きたいか、と問うた彼のモノの燐憫の情のこもったその声を。
 ユキはクェルツェルと契約を交わした後、しばらくを彼が創った空間の中ですごした。曰く、死の間際の身体を無理やり魔力で繋ぎ止めたため、時間が正常に流れるリシギアに存在するにはまだ無理のある状態だったらしい。それで、リシギアとは空間的にも時間的にも隔離されたその世界でユキは自身の身体が安定する時をひたすらに待った。リシギアとは時間の流れが違うために、ユキは自身がどれくらいのときをその空間で過ごしたのかはわからない。空腹を感じることもなければ、睡眠を必要とすることもなかった。ただ、ずいぶんと永い時間其処にいたような気がした。そのあいだ、自分が何をしていたかということは、実はユキはよく覚えていない。ただ、浮かんでは消える世界の心理を眺めていたような気がする。そして、一度はそのすべてを理解したような気がしたが、もう思い出すことはできない。
 本当に不思議な時間だった。実際に過ごしたのかも今となっては危うい。しかし、今までになかった魔術についての知識が、力が、ユキに唯一あの時間が現実だったのだと訴えかけてくれた。
 そんなことをユキはトモに話した。先程の飛竜とライールのともすれば感動的とも捉えられる光景を無関心、無感動であるどころか、どこか理解しがたいとでも言うような怪訝さを持って眺めていたと瞳だとは信じられないほどに、今、その緋色の瞳は好奇心に輝き、驚きと、感動に打ち震えていた。それがユキには分からなかった。価値観の違いなのかとも思う。こんな異常な世界の話に好奇心を持ち首を突っ込みたがる神経が分からない。それならば、先程の二人のやり取りに感動し、何とか力になってあげたいと思うほうがよほどユキには自然だったのだが、トモのあの反応を見るに、どうやら自分たちは逆の感性を持っているらしかった。
 そう思うにもかかわらず、トモが自分に嫌悪感を持たず、話を聞いてくれることに、一緒にいてくれることに、ユキは間違いなく安堵し、それに甘えているのだ。理解できないのに、その理解できない価値観に甘える自分が酷く惨めで、悲しくなった。飛竜とライールが交わした愛情に感動を覚え、それを共有したいと思う反面、それに価値を見出さず、自分の知らない世界にばかり興味を向けるトモの価値観に救われている。自分にとってトモは、また、トモにとって自分はどんな存在になりえるのだろうか。少し一緒にいて既に行き違い始める思考、価値観に不安を覚える。なら、どうすれば良かったというのだろうか。自分はトモを何も知らない。トモも自分を何も知らない。宿に戻る前のトモの言葉がよみがえる。どうしてだ、と彼女は問うたのだ。ユキの行動、ユキの願望にどうしてだと歩み寄ってくれていたはずなのだ。そして、今も。
 それに気づいているにもかかわらず、近づいて離れる恐怖に打ち勝てずトモの質問にだけ答えその場を凌いでいる自分にユキは反吐が出そうだった。
「話からすれば、そのクェルツェルってのは相当な魔力の持ち主でそいつに会たいっつーことはやっぱ、それなりの理由があるんだろうな」
「多分、そうなると思う。強い魔力の持ち主と会うのはやっぱりそれだけ難しいし……そもそも、そんな存在を知っているということ自体が僕にしてみれば普通じゃない」
 自分の場合は本当に運がよかったのだとユキはため息をついた。
「じゃぁ、例えば、だ。クェルツェルになんか頼みたいことがあるなら、どんな内容が予想できるんだ?」
 おそらく、飛竜のことを考えているのだろう。会わなきゃ、という彼の言葉を聴いたときも、ユキはトモの質問と同じことが頭をよぎった。彼が、クェルツェルに望むとするならば。
「まず、一番可能性があるのは僕と同じ願い、契約して魔術師になること。でもこれは別にクェルツェルじゃなくてもいいし、もっと別の存在と契約を交わすほうが利口だと思う。だからもっと別の……それこそ、なにか世界のルールに近づくような何か、じゃないかな。僕にもよくわかんないや。抽象的でごめんね」
「世界のルール?」
「ん、あぁそっか。魔法について勉強してないとわかんないよね」
 怪訝そうな顔をするトモに少し優越感を覚える。いつもはトモの生活能力に助けられているが、自分はそのトモにはないいろいろな知識を持っているのだということが少し楽しい。
「世界にはね、ある一定のルールが存在するんだ。普遍性とか、一般的なイメージとかそんな風にも言い換えることができるかな。魔のモノと契約して使う魔術も、自分の中にある微々たる魔力をコントロールして使う魔法や法術もそんな世界のルールに則り、あるいは利用して発動させるんだけどそれはどうでもいいよね?」
 トモは一度うなずき、無言で続きを催促した。そしてユキは続ける。
「ルールの内容は、そうだなぁ……例えば、炎は熱いとか、石は固いとかそんな感じ。本当に、それが当たり前で、疑いようがなくて、変えようのない事実。炎という存在の名前を変えても、熱いという感覚を冷たいと名づけても、物事の本質は変わらないでしょ? 名前に捉われない、普遍的なイメージこそが世界の真実でルールっていうのが大前提なんだけど、大丈夫?」
「な、何とか……?」
「じゃぁ、続けるね。もちろん、その普遍的なイメージはあくまでイメージであって、不確かで形、具体性を持たないじゃん。それに具体性を持たせるのはあくまで言葉なんだよね。まぁ、ここら辺の話は本当に難しいし今は関係ないから省略するけど、その普遍的なイメージ、世界のルールってそんなあやふやなものだからちょっと強力な力をかけてあげると歪むんだよね。もちろん、強大で強力で重要なルールは歪まないけど……”冷たい炎よ”」
 トモには聞き取れない不思議な響きをユキが最後に口にしたかと思うと、目の前に小さな炎が浮かび上がった。目を丸くし、トモが呆然とそれを見ていると、ユキが小さく笑ってトモの手をとり、その炎に触れさせた。
「な、にっ……?!」
 当然トモは驚き、すぐさま手を退けようとしたのだが、その炎は熱くなかった。反射的にトモがユキを見ると、ユキは小さく笑ってその炎を消した。
「見つかるとやばいからね。僕でも、このくらいの歪みは作り出せる。なーんて言ってみるけど、結構これ、凄いことなんだよ。でも、つまりは僕と同じように人の姿を捨てる程度の契約で世界のルールは歪んじゃうってこと」
 最後は笑顔で締めくくったつもりだったが、ユキは自身が本当に笑えていたのか自信はなかった。何故だか、妙にトモの表情が泣きそうに見えたのだ。ユキには、やはりトモのことが分かりそうになかった。