第二章 飛竜
「俺は、ライールと飛竜をつれて、研究所を出た。もっと早く連れ出せばよかったと後悔するばかりだった。そして、走って、走って、追っ手も来ないだろうというところまで来た時には、もう、飛竜は心を閉ざしていた。俺のこともわからない様子だったし、研究所のことも覚えていなかった。蒼竜のことさえも、覚えていなかった」
「その時シャクスは途方にくれてたわね。これからどうしようって呆然として。飛竜だけが、なんにもわかってない様子で、どうしたの? って聞くのよ。その時にね、アタシ言ったの。アタシといると迫害されるから、ここで別れましょうって。そしたら飛竜が、離れないでって……言って……だから、アタシ、今日からアタシたち、家族だからね……って、言って……」
ライールの言葉の最後の方はほぼ啜り泣きに近いものだった。シャクスも、その時のことを思い出したのか、バツが悪そうな顔をしている。おそらく、先ほどライールに冷たい態度をとったことを後悔し始めているのだろう。そうやって、逃げ出して、心を寄り添わせて三人でここへ来たのだとしたら、そこにはユキの想像し得ない複雑な感情があるのだろう。
ライールを、視界から外すように顔を背けて、シャクスは続けた。
「……それから、当面の間どうするということも思い浮かばなかったから、三人でライールの生き別れの姉を探すことにしたんだ。研究所に連れられた時にはぐれたと言っていたから、俺にとっては罪滅ぼしの意味もあった。行き先は、飛竜が決めた。夢遊病のように、飛竜はどこかへふらふらと向かって行っていたからな。そして、俺たちは巨大な一本の樹の麓へとたどり着いた」
一本の樹、という言葉に、ばっと飛竜が顔を上げる。
「それは、覚えてる……! そうだ、その時に蒼竜の声がしたんだ。帰ろうって。帰って、クェルツェルに会わなきゃって!」
「クェルに……?」
ユキのその呟きは誰の耳にも届かなかった。そして、シャクスは飛竜の言葉を訝しげにしながらも、話を続けた。
「そんで、飛竜がその樹に触れた途端、俺たちは砂漠のど真ん中にいた。正直、訳がわからなかったが、近くに町を見つけたもんで、とりあえずそこに向かって……あとはお前たちの知るとおりだ」
「なるほどな。にわかには信じがたいが……」
「気持ちはわかるが、真実だ。俺だって、今の今までここが異世界だなんて思ってもいなかった」
トモは、シャクスの話に大きくため息をつくと、まいったな、とだけ言った。それもそうだろうとユキは思った。ユキでさえ、信じがたい、受け入れがたい話なのだ。クェルツェルに実際に会い、契約を交わし、死ぬはずだった命を救われた自分でさえ。それでも、トモが頭ごなしにその話を否定しないのは、ライールの本気の取り乱しかたがそうさせるのか、ユキとの出会いがそうさせるのか、それとも、飛竜のその不思議な存在感がそうさせるのか、ユキには到底わかるはずもなかった。
「それで、シャクス。アンタはこれからどうしたいんだ」
鋭い声で、トモが本題をシャクスに突きつける。トモにとっては、この話の真偽よりも、これからどうしたいかという話の方が重要なのかもしれない。シャクスは、意外にも悩む様子もなく、答えた。
「俺は、本当は飛竜とライールと三人で元いた世界に帰って、ライールの姉さんを見つけて、そこで静かに暮らしたい。だが、本当に飛竜が蒼竜の声を聞いたなら……俺は、飛竜をクェルツェルとやらに会わせてやりたい」
「オレたちについてくるという気は?」
「ない。お前たちも俺たちを信用しないだろうし、五人というのは多すぎる」
「だろうな」
トモは短く答えると、もう一度ため息をついた。飛竜を連れ歩きたくないと思ってるいるのだろうとユキは考えたが、それを言葉にすることはしなかった。飛竜を連れ歩くことのリスクは、ユキにも理解できる。それでも、ユキは飛竜をクェルツェルに会わせなければならないと感じていた。なぜかはわからなかったが、どうしても、そうしなければならない気がしたのだ。何か言わなければとユキは口を開きかけたが、それよりも早くライールが言葉を発した。
「もういい、アタシはもういいよシャクス……シャクスだけでもその子について行ってあげればいいよ……アタシは元々一人だったもん……アタシは一人で姉さんを探す」
「だっ、ダメだよ、シャクス兄さんとライールさんは元の場所に帰らなきゃ!」
それに反論したのは飛竜だ。
「僕は、そこには戻れないけど。なんでかな、わかるんだ。ここが、僕の本当にいなきゃいけない場所だって。でも、シャクス兄さんとライールさんは、違う」
大人びた、美しい姿で、飛竜ははっきりと告げた。それにシャクスは頷くと、意を決したように言った。
「飛竜……俺は、ライールと一緒にいようと思う」
それに、ライールは困惑した様子で顔を上げ、飛竜は安心したように微笑んだ。肩の荷が下りたような笑みだった。シャクスも、寂しげであるが、笑っていた。
「うん、それがいいよシャクス兄さん。蒼竜のことは、兄さんが気にやむ必要はないし、僕に罪悪感を抱く必要もないよ。僕が本当に兄さんと血の繋がった弟だとも、僕には言えないし。でもね、兄さん、僕も、蒼竜も、シャクス兄さんのこと、本当の兄さんのように思ってるよ」
「いや、飛竜。お前も蒼竜も、俺の本当の弟だよ。目なんて、母さんそっくりだ。母さんは、本当に美しい人だった。お前たちのように、な」
シャクスと飛竜の間には距離があった。今まで、ユキは飛竜とシャクスの間に精神的な距離を感じていた。しかし、いまそこにあるのは、たった数歩の物理的な距離だけだ。別れを決めた、その言葉、心に、今までのような距離は感じられない。
だが、ライールはシャクスの言葉を嘲笑するように突き放す言葉を口にした。
「何? シャクス、同情? いいわよ別に。アタシの家族は姉さんだけなんだって、わかったから」
どこか諦めた様子で、あざ笑う姿は、ユキの目にも痛々しく思った。シャクスは尚更そう感じたようで、表情を歪め、どこか必死な様子でライールに向かった。
「違う! 同情じゃない! 俺は、お前のことだって、大切に思ってる! さっきは悪かった。俺が、悪かった……ライール、頼むから俺と一緒に居てくれ。俺は、お前と帰りたい」
「罪滅ぼしのつもり?」
「否定はしない。信じてくれとも言わない。けど、一緒に帰ろう。それくらいは、許してくれ」
ライールは、側から見ても困惑した様子だった。飛竜を大事に思う気持ちは、これまでの流れで、ユキにも痛いほど伝わってきたが、そういえば、ライールがシャクスを、シャクスがライールをどう思っているかは今ひとつ分からないままだったのを思い出す。
まるで、飛竜が二人をつなげていたかのように見えていたが、そうではなかったのかもしれない。いや、決して短くはない時間を、一緒に旅してきたのだろう。そこに情がないほうがおかしいのかもしれない。
「決まったな」
「うん、そうだね」
トモの言葉に、ユキはこれで良かったのだという気持ちで返事を返す。ユキの目に、飛竜とシャクスとライールが別れを決めたその瞬間、故郷があるから旅に出れるのだと告げた日のトモの姿が重なった。誰かが、別れを決心して旅立つ瞬間の、独特の感覚がユキにこれでよかったのだと思わせたのだ。
誰かと別れることを決めて、自らの意思で旅立つのは、自由である証な気がして、ユキは少し羨ましく思う。何も持っていないユキには、存在しない自由だった。
「その時シャクスは途方にくれてたわね。これからどうしようって呆然として。飛竜だけが、なんにもわかってない様子で、どうしたの? って聞くのよ。その時にね、アタシ言ったの。アタシといると迫害されるから、ここで別れましょうって。そしたら飛竜が、離れないでって……言って……だから、アタシ、今日からアタシたち、家族だからね……って、言って……」
ライールの言葉の最後の方はほぼ啜り泣きに近いものだった。シャクスも、その時のことを思い出したのか、バツが悪そうな顔をしている。おそらく、先ほどライールに冷たい態度をとったことを後悔し始めているのだろう。そうやって、逃げ出して、心を寄り添わせて三人でここへ来たのだとしたら、そこにはユキの想像し得ない複雑な感情があるのだろう。
ライールを、視界から外すように顔を背けて、シャクスは続けた。
「……それから、当面の間どうするということも思い浮かばなかったから、三人でライールの生き別れの姉を探すことにしたんだ。研究所に連れられた時にはぐれたと言っていたから、俺にとっては罪滅ぼしの意味もあった。行き先は、飛竜が決めた。夢遊病のように、飛竜はどこかへふらふらと向かって行っていたからな。そして、俺たちは巨大な一本の樹の麓へとたどり着いた」
一本の樹、という言葉に、ばっと飛竜が顔を上げる。
「それは、覚えてる……! そうだ、その時に蒼竜の声がしたんだ。帰ろうって。帰って、クェルツェルに会わなきゃって!」
「クェルに……?」
ユキのその呟きは誰の耳にも届かなかった。そして、シャクスは飛竜の言葉を訝しげにしながらも、話を続けた。
「そんで、飛竜がその樹に触れた途端、俺たちは砂漠のど真ん中にいた。正直、訳がわからなかったが、近くに町を見つけたもんで、とりあえずそこに向かって……あとはお前たちの知るとおりだ」
「なるほどな。にわかには信じがたいが……」
「気持ちはわかるが、真実だ。俺だって、今の今までここが異世界だなんて思ってもいなかった」
トモは、シャクスの話に大きくため息をつくと、まいったな、とだけ言った。それもそうだろうとユキは思った。ユキでさえ、信じがたい、受け入れがたい話なのだ。クェルツェルに実際に会い、契約を交わし、死ぬはずだった命を救われた自分でさえ。それでも、トモが頭ごなしにその話を否定しないのは、ライールの本気の取り乱しかたがそうさせるのか、ユキとの出会いがそうさせるのか、それとも、飛竜のその不思議な存在感がそうさせるのか、ユキには到底わかるはずもなかった。
「それで、シャクス。アンタはこれからどうしたいんだ」
鋭い声で、トモが本題をシャクスに突きつける。トモにとっては、この話の真偽よりも、これからどうしたいかという話の方が重要なのかもしれない。シャクスは、意外にも悩む様子もなく、答えた。
「俺は、本当は飛竜とライールと三人で元いた世界に帰って、ライールの姉さんを見つけて、そこで静かに暮らしたい。だが、本当に飛竜が蒼竜の声を聞いたなら……俺は、飛竜をクェルツェルとやらに会わせてやりたい」
「オレたちについてくるという気は?」
「ない。お前たちも俺たちを信用しないだろうし、五人というのは多すぎる」
「だろうな」
トモは短く答えると、もう一度ため息をついた。飛竜を連れ歩きたくないと思ってるいるのだろうとユキは考えたが、それを言葉にすることはしなかった。飛竜を連れ歩くことのリスクは、ユキにも理解できる。それでも、ユキは飛竜をクェルツェルに会わせなければならないと感じていた。なぜかはわからなかったが、どうしても、そうしなければならない気がしたのだ。何か言わなければとユキは口を開きかけたが、それよりも早くライールが言葉を発した。
「もういい、アタシはもういいよシャクス……シャクスだけでもその子について行ってあげればいいよ……アタシは元々一人だったもん……アタシは一人で姉さんを探す」
「だっ、ダメだよ、シャクス兄さんとライールさんは元の場所に帰らなきゃ!」
それに反論したのは飛竜だ。
「僕は、そこには戻れないけど。なんでかな、わかるんだ。ここが、僕の本当にいなきゃいけない場所だって。でも、シャクス兄さんとライールさんは、違う」
大人びた、美しい姿で、飛竜ははっきりと告げた。それにシャクスは頷くと、意を決したように言った。
「飛竜……俺は、ライールと一緒にいようと思う」
それに、ライールは困惑した様子で顔を上げ、飛竜は安心したように微笑んだ。肩の荷が下りたような笑みだった。シャクスも、寂しげであるが、笑っていた。
「うん、それがいいよシャクス兄さん。蒼竜のことは、兄さんが気にやむ必要はないし、僕に罪悪感を抱く必要もないよ。僕が本当に兄さんと血の繋がった弟だとも、僕には言えないし。でもね、兄さん、僕も、蒼竜も、シャクス兄さんのこと、本当の兄さんのように思ってるよ」
「いや、飛竜。お前も蒼竜も、俺の本当の弟だよ。目なんて、母さんそっくりだ。母さんは、本当に美しい人だった。お前たちのように、な」
シャクスと飛竜の間には距離があった。今まで、ユキは飛竜とシャクスの間に精神的な距離を感じていた。しかし、いまそこにあるのは、たった数歩の物理的な距離だけだ。別れを決めた、その言葉、心に、今までのような距離は感じられない。
だが、ライールはシャクスの言葉を嘲笑するように突き放す言葉を口にした。
「何? シャクス、同情? いいわよ別に。アタシの家族は姉さんだけなんだって、わかったから」
どこか諦めた様子で、あざ笑う姿は、ユキの目にも痛々しく思った。シャクスは尚更そう感じたようで、表情を歪め、どこか必死な様子でライールに向かった。
「違う! 同情じゃない! 俺は、お前のことだって、大切に思ってる! さっきは悪かった。俺が、悪かった……ライール、頼むから俺と一緒に居てくれ。俺は、お前と帰りたい」
「罪滅ぼしのつもり?」
「否定はしない。信じてくれとも言わない。けど、一緒に帰ろう。それくらいは、許してくれ」
ライールは、側から見ても困惑した様子だった。飛竜を大事に思う気持ちは、これまでの流れで、ユキにも痛いほど伝わってきたが、そういえば、ライールがシャクスを、シャクスがライールをどう思っているかは今ひとつ分からないままだったのを思い出す。
まるで、飛竜が二人をつなげていたかのように見えていたが、そうではなかったのかもしれない。いや、決して短くはない時間を、一緒に旅してきたのだろう。そこに情がないほうがおかしいのかもしれない。
「決まったな」
「うん、そうだね」
トモの言葉に、ユキはこれで良かったのだという気持ちで返事を返す。ユキの目に、飛竜とシャクスとライールが別れを決めたその瞬間、故郷があるから旅に出れるのだと告げた日のトモの姿が重なった。誰かが、別れを決心して旅立つ瞬間の、独特の感覚がユキにこれでよかったのだと思わせたのだ。
誰かと別れることを決めて、自らの意思で旅立つのは、自由である証な気がして、ユキは少し羨ましく思う。何も持っていないユキには、存在しない自由だった。