第一章 ルフィルスタウン

「ん、オレ、もしかしてお前が前にここに来たとき会ったりしてる?」
 ユキは、驚いて思わずこぼれそうになった声を必死で押しとどめた。ユキが笑った後に、トモはふと考え込む表情をしてじっとユキを見つめる。しかし、それほど時間を経てずに視線を戻し、なんでもないというように首を振った。
 その仕草に、ユキは会った事があると、君を探していたんだよと言ってしまいたい衝動に駆られた。もちろん、そうすることはできたし、そうすることに何の問題もない。しかし、ユキはあえてそうすることをしなかった。それは、過去の自分との決別を決意し、自己暗示をかけるためである。故郷を失い、姿を変え、誰の記憶にも残っていない自分は果たして村で幸せに生きていた自分と同一人物なのだろうか。村を失った時から幾度となく駆け巡った疑問。記憶の中に残っていたおぼろげな緋色の少女の姿をまず探そうと思ったきっかけは、彼女に自分が何者なのかを決めてもらおうと思ったからだった。彼女が、ユキと過去の自分をつなげたのならば、過去の自分とユキは同一人物となる。しかし、トモはユキと過去に出会ったであろう少女をつなげることはしなかった。それを悟った瞬間、ユキの中で過去の自分はまったくの他人に変わった、いや、他人に変えた。
 そうすることで、ユキは不安定な自分の存在をやっとのことで保っていたのだ。今、それを崩すわけには行かない。ようやくユキとして自分の存在を安定させたのに、過去の自分とユキを結び付けてその安定を崩すわけには行かなかった。
 亡くしたものを、独りで背負うにはあまりに辛すぎた。
「多分、人違いだよ」
 過去の自分はユキではない。ユキではない誰かだと言う意味をこめて、今、ユキは幼少の唯一の残った過去の自分すらも亡いものとした。トモはそんなユキの決意に気づくはずもなく、少し残念そうに笑った。
 そして、過去と決別しきった今だからこそ、打ち明けるべきことがあるとユキは思い、そのままトモの耳の近くに口を寄せ小さな声で打ち明けた。
「だって、僕は魔術師だもの」
 瞬間、ユキの目の前には燃える様な緋色が広がっていた。火傷しそうなほど燃え上がっている瞳がユキの年の割には大人びた顔を見、そのまま視線は左頬の痣に移り、最後に亜麻色の長い髪に隠された人のものではない耳に移る。ユキは、一歩下がって少しだけフードを上げた。いくら死角になる場所を選んだとはいえ、町の入り口は人が多い。トモが、ユキの顔を全体的に捕らえたと思ったら、すぐにそれはフードの陰に隠されてしまう。ただ、眼帯に隠されていない暗い漆黒の左目が華やかではないが、少女特有の可愛らしさを持った顔に不釣合いなのだろう。トモは左目を見て、似合わないなと呟いていた。
 左頬の五本の線がまるで花柄でも描くように丸く広がる痣に、リシギアでは決して見ることのない亜麻色の髪、そして、その髪に隠れる人のものではない耳、眼帯の下もおそらく何か隠しているはずだ。そんなあからさまに普通ではない人の姿は、リシギアで禁止されている魔力を糧とし生きるものと契約を交わし魔力を得た者、すなわち魔術師となったものであることを意味していた。しかし、一口に魔術師と言っても、契約の内容は様々で、得る力も影響も様々である。一応魔術師ではあるが、契約の内容が軽い者は、ほとんど姿も変わらず魔術師だとばれることもほとんどない。当然ながら、契約の内容が重く、強力であるほど自分への影響も大きい。それは、見た目が変わるということもそうなのだが、契約時に肉体的、精神的苦痛を伴うことや、魔力の大きさに飲まれる可能性もあることなど、そのデメリットゆえに、あからさまに魔術師だと分かるほど強力な契約を交わすものはほとんどいない。そう、ユキの姿はかなり強力な契約を交わしたことも同時に示していた。
「魔法使いと魔術師の違いは自分の魔力の微弱な流れを自然の力に同調させ利用するか、ほかの、魔のものと交わし力を手にするか……僕は後者。クェルツェルという魔のものと契約を交わした魔術師だ。さぁ、トモ、君はどうするの?」
 本当は、もっと早くに打ち明けるべきだということをユキは分かっていた。このタイミングで打ち明けるのは正直、フェアではない。トモの決心を崩してしまう結果になるかもしれないし、情を利用しているという感覚もある。そして、同時に賭けでもあった。ここは町の入り口で、町の入り口には役所がある。ユキを捕まえるにはあまりにも好条件なのだ。
 それでもこのタイミングで打ち明けたのは、決別ついでとでも言うべきだろうか。ほとんど勢いに近かった。
 トモはしばらく唖然とし、低く少々聞き取りづらい声で口を開いた。
「オレは、自警団長であり町を守る者だ。旅に出たとして、それは変わらない」
 強い視線がユキを捕らえていた。あまりに強すぎてその目は感情を読み取らせることをしない。ユキは賭けに負けたことを覚悟し、いつでも逃げれるように体制を整えた。それを見て、トモが軽く笑う。
「そう、オレは自警団であって、役人じゃない。魔術師だろうが盗賊だろうが、この町に害をなさないならば関係ないんだよ。お前はこの町に害をなす者なのか? 違うだろ。なら、オレ自身としては、何一つ問題はない。第一、この町には魔術師なんでゴロゴロいる」
「それって……?」
 ユキは逃げの姿勢を崩さないまま困惑の表情を浮かべた。今の王が即位してすぐに魔術師狩りがなされ、ほとんどの者がつかまったものだと思っていたのだ。
「いいか、ユキ。ここはある意味では無法都市なんだ。この町は唯一王家の法が届かない町であり、無理やり自治権を毟り取ることに成功した町なんだ。この町では、オレ達自警団が無害だと判断した奴は全員保護対象なわけ。当時、自警団長だったオレの父さんは魔術師がそんなに害があるとは思わなかったんだろうな。全員保護したみたいだな」
「役人は何も言わなかったの……?」
 ユキがそう訊くと、今まで小声で話していたトモは、意地の悪い笑みを浮かべ大声で叫んだ。
「言っただろ? ここは無法都市だ。役人がオレ達に勝てると思うか? 表裏一体であるオレ達に?」
 役所にまで届く大声に、ユキは苦笑を漏らす他なかった。しかし、その役人ですら、ですから私たちの代わりに仕事してください、だなんて叫び返しているものだから、ユキは苦笑では無く、今度は本格的な笑いがこみ上げてくるのを感じた。ふと、周りを見渡すと、道を歩いていた人々もくすくすと笑っている。
 あぁ、これが平和なのかとユキは強く思った。それを守ったのは、築いたのは、トモを育てたイサクと言う男で、だから町の人々はイサクを愛し、イサクの意志を継ぐ子供たちを愛している。その子供であるトモが旅に出るといったならば、町の人々はどう思うのだろうか。少々、いや、かなり思慮に欠けた行動をしているのではないだろうか、そんな考えが頭によぎった。しかし、それと同時にマスターの言葉も思い出す。
 それは、もどかしくて、温かくて、辛い感情だった。
 全てを失ったユキとは違い、トモは多くのものがあるこの町から去ろうとしているのだ。人は独りで生きるにはあまりにも辛く、苦しい。それは、独りの世界を体験したユキだから、よく知っている。しかし、また、多くのものに囲まれ、愛されたまま生きるのも退屈なのかもしれないとユキは思った。義理や情、恩や安定した生活を望む心が、時には人を縛って動けなくしてしまうのだと。それをトモは断ち切って旅に出ようというのだから、ユキはただただ凄いと思う。良いも悪いも関係なく、ただただ凄いと思った。自分の目指すことや、望むことはなんなのだろうと一生懸命考えたことがあっただろうかとユキは自分に問いかけた。しかし、出てきたのは先日、トモとマスターの店で話した時の言葉だけだった。旅をするのが憧れなのだと語ったトモの表情と、役人と言い合うトモの表情が重なって、むず痒い。
「サボってないで見回りしてくださいよ!」
「サボりじゃねぇよ! ただいま絶賛観光案内中だ!」
 役人とトモのやり取りは、今まで見てきた町のギスギスとしたそれではなく、共に町を愛し、守るものとしてのものだった。それは、役人と町の人との理想の関係だろう。しかし、そんな関係性を持ったほかの町を、ユキは知らない。幸せに包まれたこの町しか知らないトモが、世界を見たとき、どう思うのだろうか。今の王が即位し、役人が威張るようになり、領主が威張るようになり、人々は疲れ切ったこの世界を見たときに、どう思うのだろうか。リシギア砂漠は生物に等しく厳しい場所だ。その中で共に生きることで、人々は信頼しあい、助け合いながら生きてきたのに、それが崩れ始めている。
 そんな世界を、トモと二人で旅をしようとしているのだと、その現実を思ってユキは少しの不安を覚えた。
「悪いな、ユキ。次は表通りの端の方にでも行ってみるか」
「そうだね」
 それでも、差し出された手のひらに勇気をもらえるから。そして、自分も共に勇気をあげるから。
 捨て去った唯一の生きたいつかの思い出のように、ユキはもう一度緋色の彼女の手をしっかりと握って、共に歩みだした。