第二章 飛竜

 すう、と自信が息を吸う音が耳に入った。そのまま、手は木の扉をたたく。返事は返ってこない。手が震えているのがわかった。胃が痛み、ぐるぐると気持ちの悪い何かが渦巻く。
「……お前が開けなきゃドアは開かねぇぞ、ユキ」
「えっ、あぁ……うん」
 ぐっとユキは手に力を込める。子供でも簡単に開けられるはずのドアがまるで鉄製の重い扉のように感じられた。ドアを重くしてるのは自分であることを魔術師であるユキは良く知っている。魔術とは、魔法とはそういうものなのだから。扉の向こうにある、感情の渦を想う。愛しい、愛しい、愛しい。息が詰まるようなそれは、それは。
 思考の終着点から逃げるようにユキはドアを開けた。
「私たちも、連れて行きなさい」
 ドアの前にはライールが既に立っていた。泣き腫らした目は赤く、頬には涙の後が何筋も残っている顔で、それでも決意をした人間の表情をしていた。
「飛竜がなんと言おうと、あんたたちがなんと言おうと、私は飛竜に着いていく。飛竜が帰らないと言うなら私も帰らない。飛竜の目的を果たして一緒に帰るの。絶対に、一緒に帰るの!」
 ユキの眼前にライールの顔が迫る。気がつけば肩はライールに捕まれ痛みを訴えている。擦り切れたような声で切々と訴える声は愛か。本当に愛なのか。
「なんで……?」
 気づけばユキは声に出していた。
「なんで、そこまで……」
「なんでもどうしても無いわよ!!」
 痛みに声が漏れた。女性の力とは思えない力で肩が圧迫されている。振りほどこうとしてもうまく力が入らない。怖かった。必至になった人間を目の前にしてユキは怖かった。そして思う。自分もこうなのかと。人とはこういうものなのかと。無意識のうちに口を開けては閉じてを繰り返した。はくはくと無意味に動く口に頭は必至で言葉を乗せようとするが、何も出てこない。そのうちに軽い衝撃が肩に伝わった。
「落ち着け、ライール」
 いつの間にかシャクスがライールの後ろに立っていた。そのうち、トモもユキの方に近づいてきてライールとユキを引き剥がしにかかった。
「なんなんだ、お前ら」
 ユキを後ろ手にかばいながらトモは問う。
「ヒステリックに叫び続けるだけで手前らの事情は一切話さない。子供二人の旅にそんな怪しい奴らがご一緒させてくださいってそれでハイそーですかと答えるとでも思ってんのか。親からきつく言いつけられてるんだ。一人前修行の旅は珍しいことじゃないけれど十分気をつけていきなさい。特に親しげな大人には気をつけなさいってな」
「そりゃあ良い親御さんだな」
 シャクスのその言葉はどこか皮肉まじりに聞こえたが、トモはトモで自慢の親なんでねと返していた。トモの口からさらっとこぼれ出る嘘にユキは一瞬唖然としたが相づちを求められて必死でうなずく。
「外から来ただとかなんだとか、子供を騙そうとするにもちょっとばかしお粗末すぎるし、お前らいったい本当に、何なんだ……あぁ、言わなくて良い。オレたちはあんたらと関わる気は一切ない。あんたら三人で旅に出るなら出れば良いさ。何もオレたちに纏わり付かなくても良いだろう?」
 なおも続くトモの達者な弁舌にライール達は呆気にとられていた。ユキもすらすらとトモの口から出てくる言葉に唖然としそうになったが、初めて会った時もそういえば毅然とした態度でその場を取り仕切っていたのを思い出して、これがトモの処世術なのだと理解した。息をするように嘘をつき、怪しいと思ったものには容赦をしない。そうやって表裏が入り交じるルフィルスタウンのその境界線を生きてきたのだろう。しかし、ここはルフィルスタウンでもなければ、今の相手はそんなトモの常の外にいる相手なのだ。そう、上手くは行かない。
「私だって、好きであなたたちと一緒に行くって言ってるわけじゃないわよ。飛竜がどうしてもあなたたちと行きたいって言うから……」
 ため息をつきながら、そう告げるライールにユキは視線を飛竜の方へと移した。困った表情の飛竜と目が合うと澄んだ翡翠色の瞳がこちらをじっと見つめ返してくる。あれは、どうあっても自分の意見を通す決意をした人間の眼だとユキは感じた。トモはどうするのだろうかと、そっとトモの顔を覗き込めば、トモも、そんな飛竜の決意を感じ取ったのだろう。難しい顔をしていた。重苦しい沈黙が、相部屋の広い部屋に落ちる。
 誰もが譲らない中、ユキは一つの疑問を投げかけてみることにした。
「飛竜は、どうして僕たちと一緒に行きたいの?」
 その疑問に全員の視線が飛竜の方へと移った。戸惑いの表情を浮かべる飛竜は、しかし何も話さない。
「俺らがそれを聞いても飛竜は黙ったままなんだ。それで、ライールがしびれを切らして」
「何があろうと飛竜についていくと宣言したのか」
 シャクスが疲れを滲ませた声で告げた。むっすりとした表情のライールはシャクスの方を見ようとしない。誰もがため息をつきたくなるようなこの状況にいい加減嫌気がさしたのだろう。そのままシャクスは続けた。
「……すまない。一度俺らも休憩しよう。ライール、下で一度飯にしよう」
「そうね、行きましょう飛竜」
「いや、ライール。お前は少し飛竜と離れろ」
 不満げにシャクスを見やるライールの鋭い目つきを気にした様子も無く、シャクスは半ば強引にライールを連れ出す。
「お前は少し飛竜に依存しすぎなんだ」
 ドアが閉められる直前にシャクスの放った言葉に、ユキは少し胸が苦しくなった。